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HCCライブチャーチ磐田

日曜礼拝のメッセージです。
10/11/2009

神の国とその義

 
 
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。
労苦はその日その日に、十分あります。
(マタイ6:33-34)

 
マタイ20章には、ぶどう園の主人の話が出ています。
その主人には、沢山の働き手が必要でした。
彼は朝早く、働く人を雇うために出かけていきました。
そして彼らに一日1デナリ(約1万円)の約束をして、ぶどう園で働かせました。
しかし手が足らず、主人は朝9時にも市場に出かけ、何もしないでいる人たちを雇いました。
12時、午後3時にも同じようにしました。
 
 
それでもまだ手がほしいので、午後5時ごろ出かけてみると、
だれも雇ってくれず立っている人たちがいたので、
「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。」と主人は言われたのです。
 
 
午後6時。仕事が終了し、給料が支払われる時が来ました。
ぶどう園の主人は監督に、
「最後に来た者(つまり5時から来て1時間しか仕事をしていない者)たちから
順に賃金を払いなさい。」と言われたのです。
午後5時から雇われた者に支払われた賃金は1デナリでした。
それを見て、朝早くからずっと働き続けた人たちは
「自分たちはもっと沢山もらえる」と期待していました。
しかし、彼らに与えられた賃金も1デナリだったのです。
彼らは主人に、自分はこれだけ頑張ってきたのに、
あの1時間しか働いていない人たちと同じ賃金なのかと文句を言ったのです。
 
 
ぶどう園の主人は、神である主であり、イエス・キリストです。
神様は、「これだけ頑張ってきた」ということよりも、
「感謝して、1時間でも喜んで働く姿勢」を喜ばれたのです。
だから、1時間しか働いていない人たちにも、同じ恵みを与えたかったのです。
神の国とは、そのようなものです。
 
 
聖書は私たちに、神の国とその義とをまず第一に求めなさいと教えています。
神様を第一にするのならば、衣食住のすべてが与えられ、
この地上で生活する中でも、神様の恵みの中を楽しみながら生活することができるのです。
また、「明日のことはあすが心配します。」とあるように、
明日のことをすべて知っている神様にゆだね、その中ですばらしい毎日を送らせて頂くのです。
 
 
「将来こうなったらどうしよう。」と心配すると、明日が来るのがいやになるでしょう。
でも、イエス様にしっかりつながって、すばらしくなっている将来を見ながら希望を持つと、
明日が来るのが楽しみになるのです。
幼子のようになって単純になって、人を裁くのではなく低くなって、
「私でも1デナリもらえる。」…そう信じて歩むことです。これこそが恵みの人生です。
02/11/2009

信仰によって義とみなされる

 
 
もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。
しかし、神の御前では、そうではありません。
聖書は何と言っていますか。
「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。」とあります。
 (ローマ4:1-3)

 
 
パウロは、アブラハムの出来事を通して、信仰とはどういうことなのかを語られました。
彼は75歳の時に、自分が行く所がどこかも分からずに、神様の御声に聞き従う中で、
自分の生まれ故郷を出て行きました。
86歳までは行ったり来たりという状況。
86歳から99歳までは、神様に一度も声をかけられませんでした。
しかし99歳の時に神様は、「本物の信仰をもって、神様を信じて歩みなさい。」と語られました。
そして、彼に子供を与えると言われたのです。
アブラハムは99歳。妻のサラは89歳。
彼は、自分にはできない、神様にしかできないと悟り、信仰を持ったのです。
翌年、彼は100歳にして、イサクという息子が与えられました。
しかし、しばらくして神様は、アブラハムに「最終試験」をしました。
それは、「イサクをいけにえとして神様にささげなさい。」というものでした。
翌朝彼は、イサクとともに出かけていきました。
いけにえをささげる場所に着くとイサクは、「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえは
どこにあるのですか。」と聞きました。
アブラハムは「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」と答えました。
そして、イサクを縛り、まさに刀をほふろうとした時、主の使いが彼を呼び、
「あなたの手を、その子に下してはならない。あなたが神を恐れることがよく分かった。」
と仰せられました。
その時、やぶに一頭の雄羊がいて、それを自分の子イサクの代わりにいけにえとしてささげたのです。
 
アブラハムは、後先のことも何も分からずに、これらのことを体験していったのです。
自分の将来はどうなるだろうか?家族の将来はどうなるだろうか?
それは、誰にも分からないのです。
でも、アブラハムが神を信じて歩んでいったように、私たちも神様を信じて歩んでいくのです。
望みえないときに望みを抱いて信じること(ローマ4:18)、これこそが信仰です。
何か頑張ったから神様は認めてくれるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって、
神様は「よし」として下さるのです。
何か聖くなって、完成されていくのがクリスチャン生活ではありません。
信仰生活が長ければ長いほど、神によりすがらなければ生きていけない。
これが、クリスチャン生活なのです。
「信じる」ということがすべての始まりです。
神様にはできると信じて、疑わないで歩んでいくのです。
大きな信仰をもって、大きなビジョンをもって歩む者とならせて頂きましょう。
28/10/2009

弱さを誇る

 
 
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に
甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
(コリント 12:9-10)
 
 
 
この世の中は、強さを誇ることが多いでしょう。
スポーツ界を見ても、強い者や速い者に賞が与えられます。
しかし聖書は、自分自身を誇ることは無益なことだと教えているのです。
皆さんには、弱さや足りなさがあるでしょうか。
また、神様により頼まなければ生きていけない状況があるでしょうか。
もし、そのような状況であるなら、そのことが恵みであると
聖書は教えているのです。なぜなら、御言葉にあるように、
神様の力は「弱さのうちに完全に現われる」からです。
私たちは、弱い状況の中にあると「私は弱い」と、
あるいは病の中にあると「私は病気だ」という具合に、
現実の中で苦しみやすい者です。
でも聖書は、「弱い時こそ強い」と教えているのです。
 
 
この手紙を書かれたパウロは、肉体に一つのとげが与えられました。
他人から見た目には分かりませんが、パウロにしか分からない痛みがあったのです。
パウロは、そのとげがなくなるようにと三度も祈りました。
パウロが他の人のために祈る祈りには、神様はすべてこたえて下さいました。
しかし、パウロ自身のとげがなくなるようにという祈りには、
神様はこたえなかったのです。
神様からの答えは、「わたしの恵みは、あなたに十分である。」というものでした。
リビングバイブルを見ると「わたしは、あなたの病気をなおさない。
でも、わたしはあなたから離れない。」とあります。
パウロの体にとげが与えられたのも意味があることであって、
それは神様を忘れないために、高ぶることがないように与えられた
「とげ」だったのです。
 
 
神様は私たちの弱さを担って下さり、力となって下さるお方です。
ヘブル4:15-16には、
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。
罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、
試みに会われたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、
おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
とあります。
イエス様も、十字架という大きなとげを持ってこの地上に来られました。
様々な問題を通して、神様から目を離さないようにと、神様は導いておられるのです。
弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に「甘んじる」とありますが、
「甘んじる」というのは、「そのままにしておく」つまり「神様におゆだねする」
ということです。
パウロも、神様に全部ゆだねきっていった時、神の栄光があらわされる大祭司となったのです。
21/10/2009

私を強くしてくださる方によってどんなことでもできる

 
 
私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。
(ピリピ 4:13)

 
 
神様は私たちに力を与えてくださり、私たちを強めてくださるお方です。
イエス・キリストは、十字架に架かって死なれただけではなく、
三日目によみがえられました。
そして、聖霊として宿ってくださり、今も私たちとともにいて
助けて下さるお方です。
 
 
ピリピの人たちにこのような励ましの手紙を送ったパウロは、
かつてはサウロという名前でした。
キリストの弟子たちを迫害し続けていた彼は、ある日、
よみがえられたイエス・キリストに出会いました。
天からの光が照らされ、彼は地に倒れました。
そして、「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか。」という声を聞いたのです。
サウロの目は見えなくなり、アナニヤによって目が開かれる中で、
彼は、イエス・キリストの福音を伝える伝道者となったのです。
迫害する人から、今度は迫害される人になったのです。
ありとあらゆる人たちにイエス・キリストを宣べ伝える中で、
牢に入れられたり、ムチを打たれたりすることもありました。
 
 
私たちも、福音を伝える時に、家族や回りの人たちに迫害される時もあるでしょう。
しかし、そこで屈するのではなく、イエス・キリストを見上げて、
救いの奇跡を信じる者とならせていただくのです。
神様が、どんな状況の中でも満たして下さるのです。
まずは、今あるものをすべて感謝していくのです。
感謝したら感謝した分だけ、神様は恵みの扉を開いて下さるのです。
だから、どんなことでも感謝していくのです。
 
 
アメリカ・カリフォルニアにある教会のある牧師先生は、
韓国に伝道集会に出かけている時に、突然電話がありました。
それは、娘さんが病院に運ばれたという内容のものでした。
帰国して娘に会うと、彼女は一方の足が切断されていました。
牧師である父が泣き崩れていると、娘は
「私は、一方の足が切断されたけど、もう一方の足が残っているから、
そのことを感謝しましょう。」と言ったのです。
その時先生は立ち直ったのです。
 
 
ピリピ4:11で「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」と
パウロが語られたように、どんな中にあっても、祝福のカギを握る事ができ、
神様の力をもらうことができるのです。
信仰とは、あきらめないことです。
あきらめないことは、大きな力につながっていくのです。
希望がない時、真っ暗に見える時こそ、神様に拠り頼んでいくのです。
よみがえりのイエス・キリストがともに働いて下さるので、
あきらめないで祈り続けていくのです。
14/10/2009

認める幸い

 
 
私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、
また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。
(ローマ 15:14)

 
 
 
手紙の著者であるパウロは、ローマのクリスチャンたちを認めていることが、
ここで分かります。
善意にあふれ、知恵に満たされ、互いに訓戒し会うことができることを、
確信していると語っているのです。
もし認めていなかったら、ローマのクリスチャンたちのことが心配で、
不安で、任せておくことができないという具合になったでしょうが、
そうではなかったのです。
 
 
私たちの人生で、「認める」ということは大きな力になるのです。
逆に、認めてもらえないことで、力を失い、失望してしまう状況も沢山あるのです。
皆さんは今まで、「認められる」ということをどれだけ経験されてきたでしょうか。
また逆に、皆さんの口から、どれだけ人々を認めること、
人々を励ますことを口に出してきたでしょうか。
 
 
チャールズ・スポルジョンという、イギリスの生んだ世界的に有名な伝道者がいます。
彼は11歳の時、子供の説教大会で説教をし、そこで先生に
「あなたの説教は素晴らしかったですよ。大きくなったらきっと、
素晴らしい伝道者になるでしょう。」と言われたのです。
その言葉が、スポルジョン先生にとって、大きな力となっていったのです。
 
 
言葉は大切です。言葉で私たちは神様のことを伝え、また人々を認め、
人々を称賛することができるのです。
言葉で福音を語り、私たちを通して福音が伝わっていくのに、
私たちがその口を閉じるような者となってはならないのです。
また、愚痴を言ったり、「お前はダメだ」などとマイナスのことを言ったりするのではなく、
人々を認め、祝福する者とならせて頂くのです。
言葉でどれくらい、周りの人々を称賛しているでしょうか。
言葉による称賛は、物をあげるよりもはるかに大きなものがあるのです。
認められることで自信を持ち、力を持ち、前進することができるのです。
 
 
パウロはいつも人々を認め、励ましていました。
ですから、パウロを通して多くの弟子が生まれていきました。
言葉は、その人の生涯を全く新しく変える力を持っているのです。
学校で友達を認めているでしょうか。職場で同僚や上司を認めているでしょうか。
人々に対しても、いつも人々を認め、励ます言葉を出す者とならせて頂くのです。
(HCCカンファレンス礼拝での榊山清志先生のメッセージより)
 

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