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HCCライブチャーチ磐田

日曜礼拝のメッセージです。
8/20/2008

罪人を救う           テモテⅠ 1:15

 
 
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、
まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。
私はその罪人のかしらです。
 
 
何が罪なのかということを、聖書は分かりやすく教えています。
一つは、神に対する罪です。
それは、神を神として認めず、自分で造った神の前に頭を下げたり、
自分の都合のよいように神様を利用したりする姿をいいます。
皆さんは、神様に感謝したことがありますか。
神に感謝することもせず、自分の言うことを聞いてくれなければ、
「こんなの神様じゃない」と横柄な態度をとってはいないでしょうか。
親を親と思わないことは罪であることと同じように、
神を神とも思わず、神に対して横柄な態度をとることは罪であると、聖書は教えています。
 
もう一つは、人に対する罪です。
私たちは、互いに愛しあい、赦しあい、親切にしあうべきです。
それを、自分の事だけを考えて生活し、自己中心やわがままな生き方をすることが、
罪であると教えているのです。
自分の言うことは聞いてもらいたいが、他人の言うことは聞きたくない…、
このような姿はないでしょうか。
愛のない心・言葉・態度…互いの人間関係の中で、そのようなことはないでしょうか。
これが罪であると、聖書は教えています。
 
イエス・キリストは、私たちに救いの道を与えて下さるために、この地上に来られました。
私たちの罪を全部背負って十字架に架かり、地獄の苦しみを経て三日目によみがえって下さいました。
このイエス・キリストを信じて恵みを受ける時、三つの大きな祝福を頂くことができるのです。
一つ目は、私たちのすべての罪が赦されることです。
私たちの身代わりとなって代価を払って下さったので、私たちの全部の罪が赦されたのです。
二つ目は、罪の奴隷から解放されることです。
悪いことをやめようと思ってもできない…これは、罪の奴隷になっている証拠です。
その鎖を断ち切って、罪の奴隷から解放して下さるのです。
肉の欲、わがまま、自己中心、このような鎖からも断ち切って、勝利を下さるのです。
三つ目は、最後の審判から救い出して下さることです。
私たちは、死後に神の前に出て、裁きを受けることが定まっています。
人のどんな真面目さも正しさも、神の前には通用しないのです。
イエス・キリストが代価を払って下さった、十字架の贖い以外には何も通用しないのです。
しかし、このイエス・キリストを信じて歩む時、私たちは救い出されるのです。
 
(HCCカンファレンス礼拝での、榊山清志先生のメッセージより)
8/12/2008

義と認められる     ローマ 4:1-5

 
 
何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、
その信仰が義とみなされるのです。
 
 
クリスチャンの皆さん。
神様の前に喜ばれるように、何とか真面目に頑張らなければ…
というような歩みをしている方は、いらっしゃらないでしょうか。
また、罪を犯さないようにと、いつも気にしながら生活している方は、
いらっしゃらないでしょうか。
そのような中に、本当の喜びはないのです。
 
クリスチャンこそ、本当の自由を味わい、神様の恵みを思い、
毎日毎日、感謝の生活をすることができるのです。
神様の愛と恵みと赦しに富んでいることが、一番素晴らしいことなのです。
 
聖書には、この世の考えや、私たちの常識と逆のことが書かれています。
「受けるよりも与える方が幸いである」(使徒20:35)
「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」(マルコ10:43) 
「ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。」(マタイ5:11-12) …という具合です。
 
また、ルカ18:9-14には、パリサイ人と取税人の二人が、祈るために宮に上る場面があります。
パリサイ人は、正しく生きていた人、この世的には正しいと認められていた人でした。
しかし、神様は彼を正しいとは認めませんでした。
そのわけは、彼の心の中での祈りにありました。
彼は、自分を正しい者としていました。
そして、人間的には正しい歩みをしているとは見えない取税人を心の中で裁いていたのです。
 
 
しかし取税人は、ただ自分の胸をたたいて、
「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と言ったのです。
神様は、自分は罪人であることを認めた、この取税人を、正しいと認めたのです。
 
イエス・キリストは、私たちが正しく生きるために…ではなく、
私たちを赦して下さるために十字架に架かって下さったのです。
イエス・キリストは、私たちの不義(すなわち「至らない所」「罪」「過ち」など)に
あわれみをかけて下さる方なのです。
そして、もう私たちの罪を思い出さないと語っているのです(ヘブル8:12)。
ですから私たちは、失敗を恐れずに、神様から頂いた大きなビジョンを持って
前進していくことができるのです。
神様は、私たちを助けて下さるお方です。
自分の頑張りや真面目さの中で生きる者ではなく、神様とともに歩み、
神様の助けを頂き、豊かな恵みの中に生きる者とならせていただきましょう。
8/5/2008

神様を見いだす人         箴言 8:32-36

 
 
なぜなら、わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、
主から恵みをいただくからだ。
わたしを見失う者は自分自身をそこない、
わたしを憎む者はみな、死を愛する。
 
 
一人のおばあさんが、大きな台風がやってきた時、家の中で一番大切なものを持っていこうと思い、
大きな風呂敷に仏壇を包んで担いでいきました。
台風が去って、おばあさんは一言言ったそうです。
「神様を助けることができてよかった。」と。
しかし同時に、何かがおかしいことにも気づいたのです。
「神様が私を助けるはずなのに、なぜ私が神様を助けるのか?」
おばあさんは、このような偶像が本当の神様ではないことに気がつきました。
彼女は教会に導かれ、洗礼を受けてクリスチャンとなったのです。
 
神様は、天も地も造られ、私たち一人ひとりを形づくって下さったお方です。
私たちはみな、神様の愛によって造られた、大切な存在であり、
神様の作品なのです。
神様は私たちに、正しい道を導いて下さり、希望を与えて下さるお方なのです。
この神様を見いだす人は、いのちを見いだすと聖書には書かれているのです。
ヨハネの福音書3章16節にあるように、イエス・キリストを信じる人は、
ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つことができるのです。
また、エペソ人への手紙1章11節にあるように、
イエス・キリストを信じる人は、天国を受け継ぐことができるのです。
ガラテヤ人への手紙3章29節には、「相続人」とも書かれています。
私たちは、すべてを持っている天のお父さんの相続人となることができるのです。
 
それに対し、神様を見失う者は、自分自身をそこなうとあります。
ルカの福音書12章13-21節にあるように、自分のために貯えても、
神様のいのちを頂かなかったら、むなしいだけなのです。
自分の力でいくら頑張ってみたところで、永遠のいのちを頂くことはできないのです。
私たちのこの地上での生活は、長くても100年くらいでしょう。
しかし、その期間に私たちは、永遠をどこで過ごすのかを決定しなければならないのです。
それは、神様を信じて天国に入る道を見いだすか、
神様を見失って地獄に行く道を通るかのどちらかです。
 
イエス・キリストは、私たちの罪、のろい、病、全てのために十字架に架かられました。
そして、私たちに永遠のいのちが与えられたのです。
私たち一人ひとりが神様を見いだし、神様の豊かな祝福を頂く者とならせて頂きましょう。
7/30/2008

十字架の贖い(あがない)      ルカ 23:33-43

 
 
イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。
あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
 
 
イエス・キリストは、私たちを罪から救うために、この地上に来られました。
目的はたった一つ、救いの道を開くことだけだったのです。
そのために、人類のすべての罪を負って、十字架に架かって下さったのです。
 
このイエス・キリストを信じ、受け入れる人は救われます。
しかし、自分が罪人であることを認めない、自分が正しいと思っている人は、救うことができないのです。
神の御子であるイエス・キリストが十字架に架けられ、犯罪者扱いされる中で、イエス様は言われました。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
十字架につけた彼らは、自分のしていることがわからない、つまり自分の罪がわからなかったのです。
そのような彼らに対してもイエス様は、「彼らをお赦しください。」と愛の姿勢を示されました。
イエス様は、人々の罪をなすりつけることをせず、一つ残らず全部を受けて、十字架に架かられました。
そのことを信じるならば、誰であっても罪なき者とされるのです。
言ってみれば、今までの「罪」という「借金」が、全部支払われたのです。
これが、イエス様の十字架の贖い(あがない)であり、救いなのです。
 
イエス・キリストは、33年間の歩みの中で、多くの人々を助け、救い、癒してきました。
その間、自分を助けたり、自分を救ったりすることは一度もありませんでした。
いつもイエス様は、心砕かれた人をお救いになりました。
言いがかりをつけるような人を救うことは、ありませんでした。
 
 
イエス様は、二人の犯罪人とともに十字架につけられました。
その時一人の犯罪人は、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言いがかりをつけました。
しかし、もう一人の犯罪人は、「お前は神をも恐れないのか。」と、たしなめて言いました。
そして、自分自身を砕いて、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、
私を思い出してください。」と言われました。
イエス様は、その心を砕いた犯罪人に対して、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
と語られたのです。
イエス様を信じる者が、パラダイスに行くことができるのです。
 
私たちは、ただ恵みによって、信仰によって救われるのです。
自分を正しい者とするのではなく、また言いがかりをつける者にならないで、
いつでも心砕き、幼子のような心で神様を受け入れる者とならせて頂きましょう。
7/23/2008

十字架の救い       ローマ 1:16-17

 
 
私は福音を恥とは思いません。
福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって救いを得させる神の力です。
なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。
「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。
 
 
福音とは何でしょうか。
神様から離れてしまった私たちをもう一度神の子供として取り戻して下さるために、
イエス様が私たちと同じ立場になってこの地上に来て下さり、私たちの罪を全部引き受け、
十字架上で私たちの代わりに死んで下さり、そして死の力を打ち砕いて復活して下さった
…これが福音です。
 
どんな人であろうと、福音を信じる時に救われるのです。
この『救い』という言葉は、非常に強い言葉です。
私たちは、色々な人々から慰められたり励まされたりします。それはとても大切なことです。
しかし人生には、慰めや励ましや助言では間に合わないということが、沢山あります。
ニュースを見ていたら、川に流されて、中州のような所で3人ぐらい取り残されている状況の中、
ヘリコプターで助けられたという状況がありました。
これが救いです。
もし川岸で、言葉で励ましたとしても、そこには何の力もないでしょう。
でも、実際に誰かが飛び込んだり、ヘリコプターを動かしたりすることによって、救われたのです。
イエス様の救いは、それ以上のものです。
それは、永遠のいのちに関わることです。
人類の最初の人が罪を犯したことにより、神様との間に断絶を生じてしまいました。
罪の性質が、生まれつき血の中に入ってしまっているのです。
しかし神様は、すぐに、その罪から救い出して下さる計画を与えて下さったのです。
 
イエス様は、あなたのために十字架に架かって下さいました。
あなたの孤独、空しさ、罪、死に対する恐怖、その一切のためにイエス様は救い出して下さいました。
神様の溢れるばかりの恵みを受けて生きることができるのです。
何が起きようと「恵み」なのです。
その時は分からなくても、最善が成されるのです。
神様は私たちに、絶対に最善以下のことはなさいません。
試練の時は辛いかもしれません。
しかし、それによって訓練され、鍛えられた者には、平安な義を結ぶことができると御言葉は約束しています。
 
 
聖書は、神様から私たちに贈られたラブレターです。
そして福音は、プロポーズです。
大好きな人にプロポーズされても、それに「はい」と答えなければ、何にもならないのです。
「あなたを愛している。」ただこの愛を受け取って下さい。これが福音なのです。
(HCCカンファレンスでの千田次郎先生のメッセージより)
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Updated 4/7/2007