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日志


2009/11/10

神の国とその義

 
 
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。
労苦はその日その日に、十分あります。
(マタイ6:33-34)

 
マタイ20章には、ぶどう園の主人の話が出ています。
その主人には、沢山の働き手が必要でした。
彼は朝早く、働く人を雇うために出かけていきました。
そして彼らに一日1デナリ(約1万円)の約束をして、ぶどう園で働かせました。
しかし手が足らず、主人は朝9時にも市場に出かけ、何もしないでいる人たちを雇いました。
12時、午後3時にも同じようにしました。
 
 
それでもまだ手がほしいので、午後5時ごろ出かけてみると、
だれも雇ってくれず立っている人たちがいたので、
「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。」と主人は言われたのです。
 
 
午後6時。仕事が終了し、給料が支払われる時が来ました。
ぶどう園の主人は監督に、
「最後に来た者(つまり5時から来て1時間しか仕事をしていない者)たちから
順に賃金を払いなさい。」と言われたのです。
午後5時から雇われた者に支払われた賃金は1デナリでした。
それを見て、朝早くからずっと働き続けた人たちは
「自分たちはもっと沢山もらえる」と期待していました。
しかし、彼らに与えられた賃金も1デナリだったのです。
彼らは主人に、自分はこれだけ頑張ってきたのに、
あの1時間しか働いていない人たちと同じ賃金なのかと文句を言ったのです。
 
 
ぶどう園の主人は、神である主であり、イエス・キリストです。
神様は、「これだけ頑張ってきた」ということよりも、
「感謝して、1時間でも喜んで働く姿勢」を喜ばれたのです。
だから、1時間しか働いていない人たちにも、同じ恵みを与えたかったのです。
神の国とは、そのようなものです。
 
 
聖書は私たちに、神の国とその義とをまず第一に求めなさいと教えています。
神様を第一にするのならば、衣食住のすべてが与えられ、
この地上で生活する中でも、神様の恵みの中を楽しみながら生活することができるのです。
また、「明日のことはあすが心配します。」とあるように、
明日のことをすべて知っている神様にゆだね、その中ですばらしい毎日を送らせて頂くのです。
 
 
「将来こうなったらどうしよう。」と心配すると、明日が来るのがいやになるでしょう。
でも、イエス様にしっかりつながって、すばらしくなっている将来を見ながら希望を持つと、
明日が来るのが楽しみになるのです。
幼子のようになって単純になって、人を裁くのではなく低くなって、
「私でも1デナリもらえる。」…そう信じて歩むことです。これこそが恵みの人生です。
2009/11/2

信仰によって義とみなされる

 
 
もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。
しかし、神の御前では、そうではありません。
聖書は何と言っていますか。
「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。」とあります。
 (ローマ4:1-3)

 
 
パウロは、アブラハムの出来事を通して、信仰とはどういうことなのかを語られました。
彼は75歳の時に、自分が行く所がどこかも分からずに、神様の御声に聞き従う中で、
自分の生まれ故郷を出て行きました。
86歳までは行ったり来たりという状況。
86歳から99歳までは、神様に一度も声をかけられませんでした。
しかし99歳の時に神様は、「本物の信仰をもって、神様を信じて歩みなさい。」と語られました。
そして、彼に子供を与えると言われたのです。
アブラハムは99歳。妻のサラは89歳。
彼は、自分にはできない、神様にしかできないと悟り、信仰を持ったのです。
翌年、彼は100歳にして、イサクという息子が与えられました。
しかし、しばらくして神様は、アブラハムに「最終試験」をしました。
それは、「イサクをいけにえとして神様にささげなさい。」というものでした。
翌朝彼は、イサクとともに出かけていきました。
いけにえをささげる場所に着くとイサクは、「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえは
どこにあるのですか。」と聞きました。
アブラハムは「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」と答えました。
そして、イサクを縛り、まさに刀をほふろうとした時、主の使いが彼を呼び、
「あなたの手を、その子に下してはならない。あなたが神を恐れることがよく分かった。」
と仰せられました。
その時、やぶに一頭の雄羊がいて、それを自分の子イサクの代わりにいけにえとしてささげたのです。
 
アブラハムは、後先のことも何も分からずに、これらのことを体験していったのです。
自分の将来はどうなるだろうか?家族の将来はどうなるだろうか?
それは、誰にも分からないのです。
でも、アブラハムが神を信じて歩んでいったように、私たちも神様を信じて歩んでいくのです。
望みえないときに望みを抱いて信じること(ローマ4:18)、これこそが信仰です。
何か頑張ったから神様は認めてくれるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって、
神様は「よし」として下さるのです。
何か聖くなって、完成されていくのがクリスチャン生活ではありません。
信仰生活が長ければ長いほど、神によりすがらなければ生きていけない。
これが、クリスチャン生活なのです。
「信じる」ということがすべての始まりです。
神様にはできると信じて、疑わないで歩んでいくのです。
大きな信仰をもって、大きなビジョンをもって歩む者とならせて頂きましょう。
2009/10/28

弱さを誇る

 
 
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に
甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
(コリント 12:9-10)
 
 
 
この世の中は、強さを誇ることが多いでしょう。
スポーツ界を見ても、強い者や速い者に賞が与えられます。
しかし聖書は、自分自身を誇ることは無益なことだと教えているのです。
皆さんには、弱さや足りなさがあるでしょうか。
また、神様により頼まなければ生きていけない状況があるでしょうか。
もし、そのような状況であるなら、そのことが恵みであると
聖書は教えているのです。なぜなら、御言葉にあるように、
神様の力は「弱さのうちに完全に現われる」からです。
私たちは、弱い状況の中にあると「私は弱い」と、
あるいは病の中にあると「私は病気だ」という具合に、
現実の中で苦しみやすい者です。
でも聖書は、「弱い時こそ強い」と教えているのです。
 
 
この手紙を書かれたパウロは、肉体に一つのとげが与えられました。
他人から見た目には分かりませんが、パウロにしか分からない痛みがあったのです。
パウロは、そのとげがなくなるようにと三度も祈りました。
パウロが他の人のために祈る祈りには、神様はすべてこたえて下さいました。
しかし、パウロ自身のとげがなくなるようにという祈りには、
神様はこたえなかったのです。
神様からの答えは、「わたしの恵みは、あなたに十分である。」というものでした。
リビングバイブルを見ると「わたしは、あなたの病気をなおさない。
でも、わたしはあなたから離れない。」とあります。
パウロの体にとげが与えられたのも意味があることであって、
それは神様を忘れないために、高ぶることがないように与えられた
「とげ」だったのです。
 
 
神様は私たちの弱さを担って下さり、力となって下さるお方です。
ヘブル4:15-16には、
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。
罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、
試みに会われたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、
おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
とあります。
イエス様も、十字架という大きなとげを持ってこの地上に来られました。
様々な問題を通して、神様から目を離さないようにと、神様は導いておられるのです。
弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に「甘んじる」とありますが、
「甘んじる」というのは、「そのままにしておく」つまり「神様におゆだねする」
ということです。
パウロも、神様に全部ゆだねきっていった時、神の栄光があらわされる大祭司となったのです。
2009/10/21

私を強くしてくださる方によってどんなことでもできる

 
 
私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。
(ピリピ 4:13)

 
 
神様は私たちに力を与えてくださり、私たちを強めてくださるお方です。
イエス・キリストは、十字架に架かって死なれただけではなく、
三日目によみがえられました。
そして、聖霊として宿ってくださり、今も私たちとともにいて
助けて下さるお方です。
 
 
ピリピの人たちにこのような励ましの手紙を送ったパウロは、
かつてはサウロという名前でした。
キリストの弟子たちを迫害し続けていた彼は、ある日、
よみがえられたイエス・キリストに出会いました。
天からの光が照らされ、彼は地に倒れました。
そして、「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか。」という声を聞いたのです。
サウロの目は見えなくなり、アナニヤによって目が開かれる中で、
彼は、イエス・キリストの福音を伝える伝道者となったのです。
迫害する人から、今度は迫害される人になったのです。
ありとあらゆる人たちにイエス・キリストを宣べ伝える中で、
牢に入れられたり、ムチを打たれたりすることもありました。
 
 
私たちも、福音を伝える時に、家族や回りの人たちに迫害される時もあるでしょう。
しかし、そこで屈するのではなく、イエス・キリストを見上げて、
救いの奇跡を信じる者とならせていただくのです。
神様が、どんな状況の中でも満たして下さるのです。
まずは、今あるものをすべて感謝していくのです。
感謝したら感謝した分だけ、神様は恵みの扉を開いて下さるのです。
だから、どんなことでも感謝していくのです。
 
 
アメリカ・カリフォルニアにある教会のある牧師先生は、
韓国に伝道集会に出かけている時に、突然電話がありました。
それは、娘さんが病院に運ばれたという内容のものでした。
帰国して娘に会うと、彼女は一方の足が切断されていました。
牧師である父が泣き崩れていると、娘は
「私は、一方の足が切断されたけど、もう一方の足が残っているから、
そのことを感謝しましょう。」と言ったのです。
その時先生は立ち直ったのです。
 
 
ピリピ4:11で「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」と
パウロが語られたように、どんな中にあっても、祝福のカギを握る事ができ、
神様の力をもらうことができるのです。
信仰とは、あきらめないことです。
あきらめないことは、大きな力につながっていくのです。
希望がない時、真っ暗に見える時こそ、神様に拠り頼んでいくのです。
よみがえりのイエス・キリストがともに働いて下さるので、
あきらめないで祈り続けていくのです。
2009/10/14

認める幸い

 
 
私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、
また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。
(ローマ 15:14)

 
 
 
手紙の著者であるパウロは、ローマのクリスチャンたちを認めていることが、
ここで分かります。
善意にあふれ、知恵に満たされ、互いに訓戒し会うことができることを、
確信していると語っているのです。
もし認めていなかったら、ローマのクリスチャンたちのことが心配で、
不安で、任せておくことができないという具合になったでしょうが、
そうではなかったのです。
 
 
私たちの人生で、「認める」ということは大きな力になるのです。
逆に、認めてもらえないことで、力を失い、失望してしまう状況も沢山あるのです。
皆さんは今まで、「認められる」ということをどれだけ経験されてきたでしょうか。
また逆に、皆さんの口から、どれだけ人々を認めること、
人々を励ますことを口に出してきたでしょうか。
 
 
チャールズ・スポルジョンという、イギリスの生んだ世界的に有名な伝道者がいます。
彼は11歳の時、子供の説教大会で説教をし、そこで先生に
「あなたの説教は素晴らしかったですよ。大きくなったらきっと、
素晴らしい伝道者になるでしょう。」と言われたのです。
その言葉が、スポルジョン先生にとって、大きな力となっていったのです。
 
 
言葉は大切です。言葉で私たちは神様のことを伝え、また人々を認め、
人々を称賛することができるのです。
言葉で福音を語り、私たちを通して福音が伝わっていくのに、
私たちがその口を閉じるような者となってはならないのです。
また、愚痴を言ったり、「お前はダメだ」などとマイナスのことを言ったりするのではなく、
人々を認め、祝福する者とならせて頂くのです。
言葉でどれくらい、周りの人々を称賛しているでしょうか。
言葉による称賛は、物をあげるよりもはるかに大きなものがあるのです。
認められることで自信を持ち、力を持ち、前進することができるのです。
 
 
パウロはいつも人々を認め、励ましていました。
ですから、パウロを通して多くの弟子が生まれていきました。
言葉は、その人の生涯を全く新しく変える力を持っているのです。
学校で友達を認めているでしょうか。職場で同僚や上司を認めているでしょうか。
人々に対しても、いつも人々を認め、励ます言葉を出す者とならせて頂くのです。
(HCCカンファレンス礼拝での榊山清志先生のメッセージより)
2009/9/28

収穫は多いが、働き手が少ない。

 
 
それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、
あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。
また、群集を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。
そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。
だから収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」
(マタイ9:35-38)
 
 
 
秋になると、様々な収穫を見ることができます。
また、私たち一人ひとりにおいても、様々な収穫があることでしょう。
良いものを蒔けば良いものを刈り取るし、悪いものを蒔けば悪いものを刈り取らなければなりません。
皆さんは、どのような収穫を願っているでしょうか。
そして、そのためにどのような種まきをしているでしょうか。
 
ここでは、イエス様が中風の人を癒される出来事がありました。
また12年間長血をわずらっていた女性が、イエス様の着物にさわることができれば直ると
信仰を持つ中で着物にさわり、イエス様がそれに応答して
「あなたの信仰があなたを直したのです。」と宣言される中で、女性は癒されました。
また、死んだ会堂管理者の娘も生き返らせました。
イエス様は病気の人々を癒され、また、罪人や取税人といった人々に嫌われる人たちを
仲間にしながら、一緒に食事をされました。
私たちは、イエス様から学ぶ必要があるのです。
そして、12年間長血をわずらっていた女性がイエス様に近づいていったように、
私たちもイエス様に近づかせていただくのです。
 
イエス様は、すべての町や村を巡って福音を宣べ伝えられました。
私たちも、教会の外に出て行き、あらゆる方面へ、そしてありとあらゆる方法を用いて、
色々な人たちにイエス様の素晴らしさを宣べ伝えていくのです。
御国の福音、つまり天国に入ることができるというグッドニュースを伝えていくのです。
みんなが同労者となって、福音を伝えていくのです。
 
そして、聖書の御言葉に触れる中で、霊的な栄養をもらっていくのです。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による。」
とイエス様も言われました。
それがなかったら、「羊飼いのない羊」のように迷ってしまいます。
霊的な栄養をもらう中で、前に向かう力を頂くのです。
 
イエス様の弟子たちも、聖霊が降る中で燃やされ、至る所に出て行って、
福音を宣べ伝えていきました。(マルコ16:20)
私たちも、沢山の収穫を見る者とならせて頂きましょう。
みんな大切な働き人です。
私を通して、多くの人が神様に出会うことができると信仰をもって前進していきましょう。
2009/9/23

偉大な同労者たち

 
 
ケンクレヤにある教会の執事で、私たちの姉妹であるフィベを、
あなたがたに推薦します。
(ローマ16:1)
 
 
 
ローマ人への手紙16章1節から16節には、37人もの名前が書かれています。
この人たちは皆、神の働きを行なっていた人たちで、皆、大切な人たちだったのです。
神の働きは、決して一人でできるものではありません。
多くの人たちの協力によって成されるものであり、人数が多ければ多いほど、
その働きが力強くなされるものです。
 
パウロは、数百人がやってもやり遂げることができないほどのことを成し遂げました。
あらゆる所に教会を建て、指導し、そこにクリスチャンの群れを興したという、
神に用いられた英雄でした。
しかし、パウロがそれほど多くのことを成し遂げたのは、
パウロの一人の力によって成されたものではなく、多くの信仰の同労者がいたからです。
パウロは、同労者の協力によって、力強い働きがなされたのです。
彼の本当の偉大さは、人々を用いることができたということにあったのです。
私たちは、何でもできて才能豊かな人が素晴らしいと思いがちです。
しかし、一人の力には限界があるのです。
 
すべてのことを自分でやろうとする人がいます。
他の人に任せることができず、他の人がもたもたしているのを見ていられないのです。
そのような人は、結局疲れてしまうのです。
一生懸命頑張っているのに、いつもボーッとしてしまったり、眠ってしまったりするのです。
それは、知恵がないのです。
能力にあふれている人は、人に任せないで自分でやってしまい、
指導者として成功しない可能性があるのです。
大きなことを成すことができる人は、人を動かすことを学んだ人なのです。
 
使徒の働きを見ると、
「そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」(使徒6:4)
とあるように、使徒たちは祈りとみことばの奉仕に力を使い、
残りのすべての働きは他の人に委ねてやってもらうという形を取ったのです。
人を動かすことをしていったのです。
 
人を見る時、その人の能力・学力・知識・財力などを見やすいものです。
けれども、宣教においてそのことが通用しないことが多いのです。
その人の力よりは、その人の動員できる同労者の力の合計のほうが
はるかに上であることが分かるのです。
多くの人を動かすことのできる人が、神の前で用いられる人物なのです。
パウロは、それができた人物だったのです。
(HCC32周年記念礼拝での、榊山清志先生のメッセージより。)
2009/9/15

主を求めよ     イザヤ55:6-11

 
 
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、
わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、
芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。
 
 
 
皆さんは、大きな夢を持っているでしょうか。
色々な心配を持っていたら、前に向かうことができません。
しかし、イエス様がともにいて、人生のハンドルをイエス様に握っていただいたら、
素晴らしい所へ導いて下さるのです。
人生には、様々なチャンスがあります。
そのチャンスは、信仰によってもらっていくのです。
 
バルテマイという盲人のこじきが道ばたで座っている時、
イエス様が通られると聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」
と叫びました。
回りの人たちは彼を黙らせようとたしなめましたが、彼はますます叫び続けました。
イエス様は彼に目を留め、「わたしに何をしてほしいのか。」とたずねました。
すると彼は、「先生。目が見えるようになることです。」と答えました。
イエス様は彼に、「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」と言われました。
すると、すぐさま彼は見えるようになったのです。(マルコ10:46-52)
バルテマイにとっては、このイエス様が近くに来られた時が、チャンスだったのです。
今日、この時に恵みを下さいという人に、主は恵みを下さるのです。
 
自己流の道を行ったり、己の道を行く者になるのではなく、
それを捨て、神様に明け渡していくのです。
自分で計画することを捨てて、神様に明け渡していくのです。
 
かつて東京にディズニーランドを造ろうという計画が日本にもちかけられた際、
その関係者の多くは反対しました。
東京には、そのような広大な土地がなかったからです。
しかし、アメリカ人の企画者は言いました。
「東京には海がある。そこを埋め立てれば、可能だ。」と。
その意見に納得し、東京ディズニーランドはできたのです。
彼らは大きな夢を持っていたので、将来がすでに見えていたのです。
 
「自分の考え」というものは、ちいさなものです。
神の計画は、自分の考えをはるかに越えています。
神の目で見たら、私たちはもっと大きな夢を持つことができるのです。
神様は私たちに、希望を与えて下さるお方です。
マタイ7:9-10には、「自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。」と、
また「子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。」とあります。
神様は、豊かな恵みを与えて下さるお方です。
自分の能力や財産に目を留めるのではなく、豊かな神様に目を向け始め、
神様からの祝福で満たす者とならせて頂きましょう。
2009/9/8

人知をはるかに越えたキリストの愛   エペソ3:17-19

 
 
人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。
こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
 
 
 
神様は、どこにおられるでしょうか?
もちろん、天国にもおられますし、私たちの横にもおられます。
それと同時に、私たちの心のうち、心の奥底に住んでくださるお方であることを
知って頂きたいのです。
 
18節ではイエス・キリストの愛について、
「その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか」と表されています。
まず一つ目に「広さ」ということですが、人間の愛というものは本当に狭いものです。
自分のことを愛してくれる人は愛するが、そうではない人を愛することは、
なかなかできないものではないでしょうか。
ペテロは、イエス様の弟子として三年間共に生活をしてきました。
しかし、いざイエス様が十字架に架けられようとする時に、ペテロは人々を恐れて、
イエス様を知らないと三回も言ってしまいました。
このようなペテロに対しても、イエス様は広い愛で彼を愛して下さいました。
第一ペテロの2章22-25節には、イエス・キリストの広い愛について書かれています。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられてもおどすことをせず、
正しくさばかれる方である父なる神様にお任せになり
自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負って下さったのです。
その うち傷の故に、私たちは罪から救われるのです。
 
また、イエス・キリストの愛の「長さ」についてですが、
「主の救いは忍耐である」とあるように、イエス様は忍耐深く、あわれみ深いお方です。
また、七度を七十倍するまで赦して下さる(マタイ18:22)お方です。
人を赦すこと、これは主が喜ばれることなのです。
 
また、「高さ」についてですが、イエス様は、私たちの罪のために、
すべてを捨て去って、晒し者にされ、裸にされ、十字架に架かられたお方です。
人間的な愛は本当に薄っぺらなものですが、神様の愛は違うのです。
私たちの罪のために、たった一人の御子であるイエス・キリストを遣わして下さり、
永遠のいのちをお与えになるお方なのです。
 
それから「深さ」についてですが、人の心というものは、
その人について色々と知っていくと、様々な思い違いなどがあったり、
失望を感じたりするものではないでしょうか。
しかし、イエス・キリストは、どこまででも愛して下さるお方であり、
失望させられることは決してないのです。
 
この、人知をはるかに越えたキリストの愛を知り、
この愛の中に生きることができたら、どんなに素晴らしいことでしょう。
人生の成功者…それは、神とともに歩む者なのです。
2009/8/31

しっかりしなさい     マタイ14:22-33

 
 
弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、
「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、
恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、
「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。
 
 
 
どんなクリスチャンであっても、最初から立派な信仰者である人はいません。
最初は疑ったり信じなかったりする中で、色々なところを通って、
神様はどういうお方なのかを知る者となっていくのではないでしょうか。
神様は、色々なところを通してでも、私たちを全き信仰者として下さるお方です。
一つ一つの出来事を通して、何かを教えようと、信仰者にしようとして下さるお方です。
 
イエス様は、5つのパンと2匹の魚で男だけで五千人が満腹になったという奇跡を、
群集に対してなされました。
群衆が帰っていった後で、今度は、弟子たちに対して信仰の訓練をされました。
イエス様は、弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、自分は祈るためにひとりで山に登られました。
夜中の三時ごろ、イエス様は湖の上を歩いて、弟子たちの前に現れました。
その姿を見て弟子たちは、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまったのです。
そのような彼らにイエス様は、「しっかりしなさい。」と言われました。
 
 
「しっかりしなさい。」
・・・これは何も、「自分の力でしっかり頑張りなさい」ということではなく、
「神の力を頂いて、勇気を出して前に向かいなさい」という意味なのです。
 
弟子たちの中の一人であるペテロは、イエス様の声に応答しました。
「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、
とお命じになってください。」
イエス様は「来なさい。」と言われました。
ペテロのその姿勢は、素晴らしい信仰の姿勢でした。
しかし彼は、目で見てはっきり分かるほどの風を見て、恐れてしまったのです。
ペテロは「主よ。助けてください。」と言いました。
イエス様はそれに対し、「信仰の薄い人だな。」と言われたのです。
 
信仰生活の中で、色々な問題を見て恐れる者や、
その問題の解決だけのために祈る者になっていないでしょうか。
そうではなく、「この問題を通して、沢山の恵みを下さい!」と祈り求めるのです。
これこそが、私たちの祈りです。
様々な目に見える問題や試練の中で砕かれて主を見上げる時こそ、
主ご自身が信仰を成長させて下さるのです。
彼が書いたペテロの手紙の中には、
「信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、
イエス・キリストの現われのときに賞賛と光栄と栄誉に至るものであることが分かります。」
(Ⅰペテロ 1:7)とあります。
解決はイエス様に、そして御言葉にあります。
主に目を向けていく中で、恵みを沢山頂く者とならせて頂きましょう。
2009/8/26

最後まであきらめない          ヘブル 10:35ー36

 
 
ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。
それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなたがたが神のみこころを行なって、
約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
 
 
 
私たちには沢山の、願いや祈りの課題があります。
しかし、最初は一生懸命祈って取り組んでいたものの、
途中から現実ばかりが見えて、諦めてしまったということはないでしょうか。
最後まで信じ通すこと、諦めないことが大切なのです。
人々の救いのために、福音のために、大胆に祈り求め、挑戦させて頂くのです。 
 
聖書には、最後まで諦めないで恵みをもらった人が沢山います。
その中の一人であるアブラハムは、最初はアブラムという名前でした。
彼は75歳の時、神の声を聞き、自分がどこに行くのかも分からないで、
ただ神の声を聞きながら、自分の生まれ故郷を出て行きました。
アブラムは、自分の故郷を出て神様の声に従って歩んでいった後も、
信仰を試される様々な時がありました。
ある時、神のことばが幻の中でアブラムに現われ、
「あなたの子孫は、空の星のようになる(増え広がる)。」と語られました。
現実にはまだ、何もそのようなことは起きていなかったのですが、
アブラムはその神のことばに導かれました。



やがて、アブラムの本妻ではない、女奴隷ハガルとの間に子供が生まれました。
その子はイシュマエルと名づけられました。
それはアブラムが86歳の時でした。
そして99歳の時、神様はアブラムに現われ、
「あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、アブラハムとなる。」と語られました。
彼は、女奴隷との間に与えられたイシュマエルを通して
そのことが成されるようにと願っていましたが、神様の答えは違いました。
イシュマエルではなく、妻サラを通して与えられる子供が跡取りになると語られました。
サラは高齢でしたが、翌年、アブラハム100歳、サラ90歳にして、
息子イサクが与えられました。


アブラハムの最終試験は、息子イサクを神様のためにいけにえに奉げることでした。
神のことばに従い通し、たきぎを背負って山に登り、
まさにイサクを刀でほふろうとした時、主の御使いが現われ
「あなたの手を、その子に下してはならない。あなたが神を恐れることがよく分かった。」
と言われたのです。
アブラハムは、まさに、望み得ないときに望みを抱いて信じたのです。


最後まで諦めない人々に神様は、祈りの答えを与えて下さいます。
私たちも主のみことばを通して信仰を働かせ、
約束のみことばは必ず成就することを信じていきましょう。
忍耐を持って祈り続け従い続ける中で、主が業を成して下さいます。
すべてを恵みに変えさせて頂き、天国を見上げて前進させて頂きましょう。

2009/8/18

神を待ち望む      詩篇 62:5

 

 

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。

私の望みは神から来るからだ。

 

 

 

神を待ち望むこと…これこそが最善の姿勢であり、また最強の姿勢であるのです。

困難な状況が起きる時、また切羽詰った状況が起こる時、

待つことができなくて、自分で色々と動いてしまうということはないでしょうか。

聖書には「神を待ち望む」とあるのです。

様々な問題も困難も悩みも、神がそれに対して解決を与えて下さるのです。

 

 

モーセの時代に、エジプトから出されたイスラエルの民をエジプトの軍勢が追いかけてきた時、

前には紅海があり、イスラエルの民は追い詰められ、もう、なすすべがない状況を見ました。

イスラエルの民はエジプトにいる時に、様々な奇跡を見たのです。

しかしこのような現状を見る中で、イスラエルの民は、

そのような神様の素晴らしい奇跡はすべて忘れてしまい、

目の前の現状にうろたえてしまったのです。

私たちの心の中にも、そのようななすすべがない、また切羽詰った状況を持つ時があります。

生活の中にも、そのような、なすすべがない状況を持つ時があります。

もう自分では、どうすることもできない状況です。

 

 

問題や困難の前に、どうすることもできない状況…。

神様はそのような中で、「じっとしていなさい。」「神を待ち望みなさい。」と言っておられるのです。

「じっとしていなさい。」とは、「なげやりになる」ということではありません。

私たちに神が働かれる、神様がことを成す…このことを語っておられるのです。

主は、生きておられるのです。

 

 

今日、このところに立っておられますか。

もし、様々な現実の中でうろたえているのであれば、神を待つという所に立って、

そこから動かないで、主に向かい始めて下さい。

主が生きておられること、主が働かれることを体験させてもらうのです。

問題のほうに目を向けないで、神を見上げるのです。

神だけに目を留めながらその中で進んでいく時に、主が業を成して下さるのです。

 

 

イスラエルの民がうろたえてしまった時、モーセは神を見上げてその杖をかざしました。

その時に奇跡が起こりました。

紅海が分かれ、そこに道ができたのです。

イスラエルの民はその道を進んでいくことができ、

エジプトの軍隊は、みな海の中に沈んでしまったのです。

神がその中に、働いて下さったのです。

 

 

神様は私たちのことをすべてご存知で、私たちを最善の中に導いて下さり、

困難や問題から救い出して下さるのです。

今日、しっかりと御言葉に立って、神を見上げて歩む者とならせて頂きましょう。

 

(HCCカンファレンス礼拝での榊山清志先生のメッセージより)

2009/8/10

キリストの苦しみの欠けたところを満たす   コロサイ 1:24-29

 
 
ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。
そして、キリストのからだのために、私の身をもって、
キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。
キリストのからだとは、教会のことです。
 
 
 
自分の欠けたところが分からずに、他人の欠けたところばかりに目が行くと、
他人をさばくようになります。
そうではなく、謙虚になって自分の欠けたところが分かるようになると、
人を生かすことができるようになります。
マタイ19:16-26の箇所で出てくる青年は、律法をよく守っている真面目な青年でしたが、
「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。」というイエス様の呼びかけに、
応答することができなかったのです。
この青年は、自分には欠けたところがないと思っていたのでしょう。
しかし彼には、与える姿勢が欠けていたのです。
私たちの生活の中に、そのような姿勢は、ないでしょうか。
 
イエス・キリストは、完全に神の手に、そして人の手に明け渡され、十字架に架かられました。
あんなに苦しまれたのにも関わらず、まだ欠けたところがあるのだと、聖書は教えているのです。
それは一体、何でしょうか。
 
それは、人々の救いです。
イエス・キリストは、全世界の全ての人々のために苦しみを負って下さいました。
でも、まだ救われていない人もいます。また、イエス・キリストに反逆する人もいます。
この福音のために、人々の救いのために苦しんでいるのだと、パウロは語られました。
 
パウロは、教会に仕える者となり、神の言葉を余すところなく伝える者となりました。
私たちも毎日、イエス・キリストを宣べ伝えさせて頂くのです。
そのために教会があるのです。
私たちクリスチャンは、「呼び出された者」の集まり、選ばれた者の集まりなのです。
教会は、キリストのからだです。
ここからキリストの福音が届けられることに、教会の存在があるのです。
 
イエス・キリストは十字架に架かられ死なれた後、よみがえられ、後に、天に上げられました。
今、聖霊様が私たちの心の中に宿る…これは、内住のキリストです。
私たちがどこに居ても、どのような状態であっても変わらない、
内住のキリストがともにおられるのです。
これこそが「奥義」であると聖書は言っています。
イエス・キリストから見たら異邦人である私たちであるのにも関わらず、
内側に住んで下さり、心の中に宿って下さるのです。
すべての解決が、すべての勝利が、教会にはあるのです。
教会のかしらは、イエス・キリストです。
イエス・キリストの恵みが教会に満ちあふれている中では、
解決できない問題や勝利できない問題は、一つもないのです。
人々の救いもそうです。
ありとあらゆる方法を通して、イエス・キリストを宣べ伝える者とならせて頂きましょう。
2009/8/5

将来と希望を与える計画     エレミヤ 29:11

 
 
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。
それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、
あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
 
 
 
私は、将来の仕事について、何も考えてはいませんでした。
親や先生は、看護師を勧めていて、私も手に職をつけたらうまくいくのではないかと思い、
看護科のある高校に進学しました。
しかし、明確な目標もなく、成績は落ちる一方でした。
「私はどうしてここにいるのかな…。」そのように思いながら、高校生活を送っていました。
友達もいましたが、表面的な付き合いでしかなく、悩みを打ち明けることもできず、
寂しい思いをしていました。
高三になっても看護師になりたいという具体的な思いがなく、
私は、浜松の短大に進学することになりました。
 
幸いなことにその短大は、キリスト教精神の短大で、
聖書や賛美歌を買い、キリスト教学の授業を受けていました。
学内には教会のキャンプのポスターが張ってあり、私はそのキャンプに参加することになりました。
そこで私は、神様の話を聞きました。
その中で、「人間には罪がある」ということを聞きました。
私の心は苦しくなり、色々な罪が思い出されました。
でも、イエス・キリストが罪を赦して下さることを知り、
私は、その中でイエス・キリストを信じ受け入れました。
私の心の中には、本当の喜びがやってきました。
私の生活は、ガラッと変わりました。
周りのみんなが、「顔が変わった」と言って下さるほどでした。



看護師の国家試験に合格し就職する時、今までの考えなら、
楽な所に就職したいと考えていたでしょう。
しかし、礼拝を第一にしたいと思った私は、日曜日がお休みの所を希望しました。
その結果、手術室に勤務することになりましたが、大変な仕事と思われる中でも、
神様の恵みをいつも覚えて、とても楽しく仕事をさせて頂きました。
結婚して子供が生まれ、実家の岡山に帰りました。
その時すでに、私の両親がバプテスマを受け、クリスチャンになっていました。
妹家族もクリスチャンホームになり、祖母も、母方の祖父もクリスチャンになりました。
様々なことを通して、神様が素晴らしい計画を与えて下さいました。
私が何かをしたわけではなく、神様が私を選んで祝福を与えて下さったことを思います。


神様は私たちに、素晴らしい希望を与えて下さいます。
人間は、死で終わりではありません。天国に希望があるのです。
神様は、私たちのために、素晴らしい計画を立てて下さっています。
そして、平安を与えて下さり、将来と希望を与えて下さるのです。
この神様にいつも目を向けて、歩む者とならせて頂きましょう。

(HCCライブチャーチ津山教会牧師 藤木さえ子先生のメッセージより)
2009/7/27

キリストの福音にふさわしい生活  ピリピ1:27、 ローマ6章 

 
 
ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。
 
 
 
クリスチャンとは、どういう者なのでしょう。
クリスチャンとは、神を知っている者、神を信じる者、キリストに似た者、小さなキリストなのです。
そして、イエス・キリストを信じる信仰によって罪から解放された者なのです。
悔い改めるだけでは不充分であり、神様とともに新しい歩みをすることが信仰生活であると
聖書は教えているのです。(ローマ6:4)
 
クリスチャンになる前、様々な罪の中を歩んでいたことは、もう解放されたものなのです。
クリスチャンになってからは、イエス・キリストが生活のすべての主人となって頂くのです。
私たちはそれに寄り添って、キリストの福音にふさわしい生活をさせて頂くのです。
もう、以前のような(罪の中を歩んでいた)生活をしてはならないのです。
私たちは、罪に死んだ者です。
罪には反応しない…これが、クリスチャンとしての歩みです。
 
しかし、私たちには、肉というものがあり、欲というものがあるのです。
それゆえに、いとも簡単に、以前の歩みに戻ってしまうのです。
イエス・キリストが私たちの罪を負って死んで下さったことによって、
「原罪」から解放されるのです。
一方、クリスチャンが罪を犯してしまうことは、神に対する「犯罪」なのです。
クリスチャンが神の前に犯してしまった罪に対して、どのようにすればよいのでしょうか・・・。
このことに対しても、悔い改めさせて頂くのです。
そして、また新しい歩みをさせて頂くのです。
 
 
神様の恵みの下にあるのだから、罪を犯してもよいということは決してありません。(ローマ6:15)
イエス・キリストを知っている故に、簡単に自我や罪の奴隷になってはいけないのです。
 
いつでも聖められて、神様に使って頂ける「聖い者」とならせて頂きましょう。
家庭の食器でも、いつでもよく使う、使いやすい食器があるでしょう。
それは、よく洗われた、使いやすいものではないでしょうか。
それと同じように、私たちも神様にとって「使いやすい者」とならせて頂くのです。
 
そして、クリスチャン生活を楽しんでいくのです。
そして、クリスチャンこそ大きなビジョンを、大きな夢をもって歩んでいくのです。
そのビジョンや夢を他の人に語った時、信仰の告白に対して、
主が責任を持って夢を実現させて下さるのです。
神様に目を向ける中で、大きな夢を持って、前に向かうことができるのです。
そして、毎日の生活の中で、大胆にイエス・キリストを証しする者とならせて頂きましょう。
2009/7/22

福音について              ローマ 1:16

 
 
私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、
信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
 
 
 
福音を通して、神はすばらしいことを今日までなされてきました。
福音によって人々の心が変わり、その人の人生が変わり、新しい出発を与え、
心の中に大きな喜びが与えられるのです。
福音には力があります。
ですから今日、数え切れないほどの多くの人々が、この福音を伝えようとしておられるのです。
 
この「福音」というものは、「宗教」とは違うのです。
宗教は、人間の頭の中で、推理の結果生まれたものです。
ですから、形や形式というものが、その中で作られてしまいます。
それに対して、福音というものは、神からのそのままのものですから、力があるのです。
クリスチャン生活の中に「いのち」があるのは、その故です。
宗教は、人間によって始められたものですが、福音は、神によって始められたものなのです。
神の、私たちに対する恵み、私たちに対するメッセージなのです。
イエス・キリストも神によって来られました。大きな違いが、そこにはあるのです。



最初の人類であったアダムとエバは、神によってつくられました。
神様と交わることができるように、神の姿に似せて造られました。
しかし、このアダムとエバに罪が入りました。その時から、神様が見えなくなり、
人類はそのような罪の中を歩む者となってしまいました。
そうした中で神様は、人類がもう一度神様と交わることができるように、
罪のないお方であるイエス・キリストをこの地上に送って下さったのです。
イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かって下さり、
罪の代価をみな払って、よみがえって下さったのです。
このイエス・キリストを信じる信仰によって、私たちはもう一度、
神様と交わることができるようになったのです。
アダムとエバの時から今日まで、神様は私たちに声をかけて下さっています。
神様が私たちのために手を差し伸べておられる…これこそが福音です。


多くの宗教というものは、私たちが神のために何かをしなければならないという具合ですが、
福音は、罪の故に愚かになっている私たちに対して、神様が手を差し伸べておられる、
その招きの声なのです。
そして多くの宗教で見られる「外面的な改善」よりも、
内面的な変化をつくり出して下さるのが、福音です。
どんな劣等感に悩んでいる人も、悪習慣に悩んでいる人も、
そこから解放させて下さる力をお与えになるのです。
神からの私たちに対する恵みが、福音という形で、私たちに提供されているのです。


(HCCカンファレンス礼拝での、榊山清志先生のメッセージより。)

2009/7/13

神様を深く知る              ホセア 6:3

 
 
私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。
主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、
後の雨のように、地を潤される。

 
 
神様を知るということ、神様を信じて歩むということは、なんと素晴らしいことでしょうか。
「私たちは、知ろう。」…とありますが、何を知るのかというと、
主というお方を知ることを切に追い求めようと、ここでは書かれているのです。
 
世の中の人は、神様を知るということを抜きにして、様々な富や知識などを追い求めようとします。
しかし、神様を知らない歩みというのは、自分の力でがんばっていかなければならない、
むなしい歩みなのです。
 
解決は、イエス・キリストにあります。
答えは、イエス・キリストにあるのです。
イエス・キリストこそが、愛を与え、自由を与え、そして力を与えて下さるお方なのです。
私たちにとって大切なのは、主と深く交わることです。
主を深く知れば知るほど、私たちは、神様からの大きな愛をもって、
信頼して歩んでいくことができるのです。
 
聖書の世界は、物事がはっきりしているのです。
天国は天国であり、地獄は地獄です。
その中間というものは、ありません。
私たちは、そのことをしっかりと知る必要があるのです。
そして、神様は大きなお方、偉大なお方です。
私たちの祈る祈りに、はっきりと答えて下さるお方です。
 
神様は、「暁の光のように、確かに現われ」て下さり、そして、
「大雨のように、私たちのところに来」て下さる、そのようなお方なのです。
来たか来ないか、分からないようなお方ではありません。
はっきりと分かるように、私たちのところに来て下さり、答えを下さるお方なのです。
 
深く、深く、神様の計画を知る者とならせて頂きましょう。
そのためにも、よく祈る者とならせて頂きましょう。
教会のためにも、周りの人々のためにも、祈る者とならせて頂きましょう。
 
そして、神様を知らない人たちに、神様のことを伝えていくのです。
天国について伝えるのと同時に、地獄のことについても伝えていくのです。
それは、神が私たちを愛し、罪から救い出して、永遠のいのちを与えるために、
御子イエス・キリストを遣わされた事実をお伝えするためです。
神様が、どれほど素晴らしいお方であるか、そして愛なるお方であるのかを、
よく知る者とならせて頂き、その愛を、人々に伝えさせて頂きましょう。
2009/7/7

今は恵みの時、今は救いの日。      Ⅱコリ 6:1-2

 
 
神の恵みをむだに受けないようにしてください。
神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、
救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

 
 
恵みをいただくのにも、人々が救われるのにも、「今、この時。」というものがあります。
盲人バルテマイにとっても、そのような状況がありました。(マルコ10:46-52)
彼は、イエス様が自分の近くにいることを知ると、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」
と叫び続けました。
周りの人々にたしなめられても、なおも「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び続けました。
イエス様は盲人のところに来て、「何をしてほしいのか。」とたずねました。
彼は、「先生。目が見えるようになることです。」と答えました。
イエス様は彼の信仰に答え、彼はすぐに目が見えるようになりました。
盲人バルテマイにとっては、このイエス様が来られた時が、叫ぶ時であり、
求める時であったのです。
 
ノアは、神の声を聞いて、箱舟を作り始めました。(創世記6-7章)
ノアは箱舟を作りながら「洪水がやってくるから、箱舟に入りましょう。」と、
周りの人々に言い続けました。
しかし、彼の言うことを信じる人は誰もいませんでした。
結局、箱舟には、ノアの家族8人と、すべての動物の雄と雌、それぞれ2匹ずつが入りました。
神はその後、箱舟の戸を閉じられました。
そして、40日40夜も大洪水が起こり、すべてのものは水で滅ぼされました。

 

今は恵みの時、救いの時です。しかし、やがてイエス様が帰ってこられ、
箱舟の戸が閉じられたように、救いの戸が閉じられる時が来ます。
それがいつであるのかは、誰もわかりません。
まだ大丈夫と思わないで、いつイエス様が返ってきてもよいように、
いつも、信仰の目を覚まして祈っている必要があるのです。

「流しそうめん」をつかめずに、流れていくのをじっと見つめているような歩みではなく、
「私も恵みをいただきます!」と大胆な信仰をもって、求めていくのです。
パウロは、牢屋に入れられたことが、人々に福音を届けることにつながっていきました。
私たちも、日々の生活の中でマイナスに見える出来事があっても、
そのことを通して恵みをもらっていくのです。

それとともに、主の前に低くならせて頂くのです。
いつも神様に従い、自我や自分の考え、常識、世間体などを捨てていくのです。
いつも神様とともに歩み、神様にとって「使いやすい器」とならせて頂くのです。
いつも主との応答をさせていただき、どんな時も恵みを逃さないで歩む者とならせて頂きましょう。

2009/7/1

強められなさい          エペソ 6:10

 
 
終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
 
 
 
主は、力のあるお方です。
イエス様がこの地上を歩まれた時、様々な奇跡が、また癒しがなされたことが、聖書には書かれています。
イエス様の行く所どこにでも人々があふれ、多くの人々に大きな慰めや励ましが与えられました。
このイエス・キリストの大能の力によって強められなさいと聖書は教えています。
 
ルカ10:19には、こうあります。
「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、
敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。
だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」
ですから私たちは、様々な中にあって前進することができ、求めることができ、祈ることができ、
大いなる挑戦をすることができるのです。
私たちには、力はありません。
しかし、主が私たちに力を注いで下さるので、できるのです。
 
私たちが小さな働きをしようとするのなら、主はそのための力を与えて下さいます。
また、私たちが大きな挑戦をするのなら、主はそれに対しても
力を注いで下さることがおできになるのです。
私たちが神のために大いなる挑戦をしようとする時、神は、それに間に合う力をお与えになるのです。
それに必要な助けも、すべて与えられるのです。
一般的なレベルや自分のレベルで物事を考えるのではなく、聖書のレベルで物事を考えていくのです。
聖書のレベルは、私たちの考えもつかないほど大きく、
一般のレベルや自分のレベルとはケタが違うのです。
それはもう、目を見張るほどのものです。
主がすべて力をお与えになって下さるので、聖書のレベルで物事を考えなかったら、損なのです。
聖書のレベルで物事をとらえ、恵みをもらっていく者とならせて頂きましょう。
 
また、バランスを持つことも大切です。
信仰をもって強められるだけではなく、へりくだることが大切です。
求めたら、主はそれに対して力を与えて下さいますが、
強められたら、力のない人たちの弱さを担ってあげることが必要なのです。
ともに励まし、支え、祈ってあげる必要があるのです。
イエス様が、まずその見本を示してくれました。
イエス様は強い者として、罪のない者としてこの地上に来られましたが、
弱い者たちの弱さを担われました。
イエス様は、バランスを持っておられたのです。
私たちも、自分に与えられたものを自分のためだけに使うのではなく、分かち合っていくのです。
「自分を喜ばせるべきではありません。」と聖書にはあります。
お金が与えられたら、その中でささげていくのです。
良いことを学んだ時も、自分のものだけにするのではなく、分かち合っていくのです。
与えることを知っている人、それこそが本当に豊かな人なのです。
(HCCカンファレンス礼拝での榊山清志先生のメッセージより)
2009/6/16

ただ恵みによるのです          エペソ 2:3-9

 
 
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
 
 
 
私たちは、罪のゆえに滅びなければならない者でした。
しかし神様は、たった一人の御子であるイエス・キリストをこの地上に送って下さいました。
イエス・キリストは、私たちの罪を負って、十字架に架かって死んで下さいました。
そして、三日目によみがえられました。
イエス・キリストは、今もともにいて下さるお方です。
私たちは、イエス・キリストを信じるだけで、罪から救われるのです。
だから、今までの過去や、罪に縛られなくてもよいのです。
この救いの恵みから漏れている人は、一人もいないのです。
 
私たちが、ただ信じるだけで救われるためには、
イエス・キリストはどれほど大きな犠牲を払ったことでしょうか。
イエス・キリストは、背中に39回ムチを打たれました。
私たちが神様に背を向けてしまうその背中に、ムチを打たれたのです。
また、私たちが悪い事を考えてしまうその頭に、いばらの冠をかぶらされました。
両手両足を釘で打たれ、馬鹿にされ、罵られ、傷を負い、いのちをも捨てて下さったのです。
私たちのために、こんなにも犠牲を払って下さったお方。それが、イエス・キリストです。
この犠牲を忘れてはならないのです。
イエス・キリストとともに歩む時、私たちがどんなに弱くても、汚くても、
聖めて下さり、恵みで満たして下さるお方なのです。
 
ルカの福音書18章9-14節には、パリサイ人と取税人の二人の祈りについて書かれています。
取税人は、みんなに嫌われていました。
そのような取税人を見て、パリサイ人は、自分の正しさを主張し、
この取税人のようでないことを感謝しますと祈りの中で言ったのです。
しかし取税人は、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて、
「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と祈ったのです。
イエス・キリストは、自分の正しさを主張したパリサイ人ではなく、
低くなった取税人を、正しいと受け入れて下さったのです。
 
自分の頑張りを見せる者になってはいないでしょうか。
そこには、恵みはありません。
神の前に自らを低くし、心をやわらかくする人に、主は恵みを与えて下さいます。
生活の中で問題や困難に直面する時、その問題や困難を取り除くことに意識を働かせるのではなく、
そのことを通して低くなり、そのことを通しても恵みをもらいますと信仰を働かせていくのです。
すべてを感謝して受け入れる中で、主は、豊かな恵みで満たして下さるのです。
(榊山澄子先生のメッセージより)