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8/20/2008 罪人を救う テモテⅠ 1:15「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、
まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。 私はその罪人のかしらです。 何が罪なのかということを、聖書は分かりやすく教えています。
一つは、神に対する罪です。
それは、神を神として認めず、自分で造った神の前に頭を下げたり、
自分の都合のよいように神様を利用したりする姿をいいます。
皆さんは、神様に感謝したことがありますか。
神に感謝することもせず、自分の言うことを聞いてくれなければ、
「こんなの神様じゃない」と横柄な態度をとってはいないでしょうか。
親を親と思わないことは罪であることと同じように、
神を神とも思わず、神に対して横柄な態度をとることは罪であると、聖書は教えています。
もう一つは、人に対する罪です。
私たちは、互いに愛しあい、赦しあい、親切にしあうべきです。
それを、自分の事だけを考えて生活し、自己中心やわがままな生き方をすることが、
罪であると教えているのです。
自分の言うことは聞いてもらいたいが、他人の言うことは聞きたくない…、
このような姿はないでしょうか。
愛のない心・言葉・態度…互いの人間関係の中で、そのようなことはないでしょうか。
これが罪であると、聖書は教えています。
イエス・キリストは、私たちに救いの道を与えて下さるために、この地上に来られました。
私たちの罪を全部背負って十字架に架かり、地獄の苦しみを経て三日目によみがえって下さいました。
このイエス・キリストを信じて恵みを受ける時、三つの大きな祝福を頂くことができるのです。
一つ目は、私たちのすべての罪が赦されることです。
私たちの身代わりとなって代価を払って下さったので、私たちの全部の罪が赦されたのです。
二つ目は、罪の奴隷から解放されることです。
悪いことをやめようと思ってもできない…これは、罪の奴隷になっている証拠です。
その鎖を断ち切って、罪の奴隷から解放して下さるのです。
肉の欲、わがまま、自己中心、このような鎖からも断ち切って、勝利を下さるのです。
三つ目は、最後の審判から救い出して下さることです。
私たちは、死後に神の前に出て、裁きを受けることが定まっています。
人のどんな真面目さも正しさも、神の前には通用しないのです。
イエス・キリストが代価を払って下さった、十字架の贖い以外には何も通用しないのです。
しかし、このイエス・キリストを信じて歩む時、私たちは救い出されるのです。
(HCCカンファレンス礼拝での、榊山清志先生のメッセージより) 8/12/2008 義と認められる ローマ 4:1-5何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、
その信仰が義とみなされるのです。 クリスチャンの皆さん。
神様の前に喜ばれるように、何とか真面目に頑張らなければ…
というような歩みをしている方は、いらっしゃらないでしょうか。
また、罪を犯さないようにと、いつも気にしながら生活している方は、
いらっしゃらないでしょうか。
そのような中に、本当の喜びはないのです。
クリスチャンこそ、本当の自由を味わい、神様の恵みを思い、
毎日毎日、感謝の生活をすることができるのです。
神様の愛と恵みと赦しに富んでいることが、一番素晴らしいことなのです。
聖書には、この世の考えや、私たちの常識と逆のことが書かれています。
「受けるよりも与える方が幸いである」(使徒20:35)
「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」(マルコ10:43)
「ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。」(マタイ5:11-12) …という具合です。
また、ルカ18:9-14には、パリサイ人と取税人の二人が、祈るために宮に上る場面があります。
パリサイ人は、正しく生きていた人、この世的には正しいと認められていた人でした。
しかし、神様は彼を正しいとは認めませんでした。
そのわけは、彼の心の中での祈りにありました。
彼は、自分を正しい者としていました。
そして、人間的には正しい歩みをしているとは見えない取税人を心の中で裁いていたのです。
しかし取税人は、ただ自分の胸をたたいて、
「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と言ったのです。
神様は、自分は罪人であることを認めた、この取税人を、正しいと認めたのです。
イエス・キリストは、私たちが正しく生きるために…ではなく、
私たちを赦して下さるために十字架に架かって下さったのです。
イエス・キリストは、私たちの不義(すなわち「至らない所」「罪」「過ち」など)に
あわれみをかけて下さる方なのです。
そして、もう私たちの罪を思い出さないと語っているのです(ヘブル8:12)。
ですから私たちは、失敗を恐れずに、神様から頂いた大きなビジョンを持って
前進していくことができるのです。
神様は、私たちを助けて下さるお方です。
自分の頑張りや真面目さの中で生きる者ではなく、神様とともに歩み、
神様の助けを頂き、豊かな恵みの中に生きる者とならせていただきましょう。 8/5/2008 神様を見いだす人 箴言 8:32-36なぜなら、わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、
主から恵みをいただくからだ。 わたしを見失う者は自分自身をそこない、 わたしを憎む者はみな、死を愛する。 一人のおばあさんが、大きな台風がやってきた時、家の中で一番大切なものを持っていこうと思い、
大きな風呂敷に仏壇を包んで担いでいきました。
台風が去って、おばあさんは一言言ったそうです。
「神様を助けることができてよかった。」と。
しかし同時に、何かがおかしいことにも気づいたのです。
「神様が私を助けるはずなのに、なぜ私が神様を助けるのか?」
おばあさんは、このような偶像が本当の神様ではないことに気がつきました。
彼女は教会に導かれ、洗礼を受けてクリスチャンとなったのです。
神様は、天も地も造られ、私たち一人ひとりを形づくって下さったお方です。
私たちはみな、神様の愛によって造られた、大切な存在であり、
神様の作品なのです。
神様は私たちに、正しい道を導いて下さり、希望を与えて下さるお方なのです。
この神様を見いだす人は、いのちを見いだすと聖書には書かれているのです。
ヨハネの福音書3章16節にあるように、イエス・キリストを信じる人は、
ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つことができるのです。
また、エペソ人への手紙1章11節にあるように、 イエス・キリストを信じる人は、天国を受け継ぐことができるのです。
ガラテヤ人への手紙3章29節には、「相続人」とも書かれています。
私たちは、すべてを持っている天のお父さんの相続人となることができるのです。
それに対し、神様を見失う者は、自分自身をそこなうとあります。
ルカの福音書12章13-21節にあるように、自分のために貯えても、
神様のいのちを頂かなかったら、むなしいだけなのです。
自分の力でいくら頑張ってみたところで、永遠のいのちを頂くことはできないのです。
私たちのこの地上での生活は、長くても100年くらいでしょう。
しかし、その期間に私たちは、永遠をどこで過ごすのかを決定しなければならないのです。
それは、神様を信じて天国に入る道を見いだすか、
神様を見失って地獄に行く道を通るかのどちらかです。
イエス・キリストは、私たちの罪、のろい、病、全てのために十字架に架かられました。
そして、私たちに永遠のいのちが与えられたのです。
私たち一人ひとりが神様を見いだし、神様の豊かな祝福を頂く者とならせて頂きましょう。 7/30/2008 十字架の贖い(あがない) ルカ 23:33-43イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。
あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」 イエス・キリストは、私たちを罪から救うために、この地上に来られました。
目的はたった一つ、救いの道を開くことだけだったのです。
そのために、人類のすべての罪を負って、十字架に架かって下さったのです。
このイエス・キリストを信じ、受け入れる人は救われます。
しかし、自分が罪人であることを認めない、自分が正しいと思っている人は、救うことができないのです。
神の御子であるイエス・キリストが十字架に架けられ、犯罪者扱いされる中で、イエス様は言われました。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
十字架につけた彼らは、自分のしていることがわからない、つまり自分の罪がわからなかったのです。
そのような彼らに対してもイエス様は、「彼らをお赦しください。」と愛の姿勢を示されました。
イエス様は、人々の罪をなすりつけることをせず、一つ残らず全部を受けて、十字架に架かられました。
そのことを信じるならば、誰であっても罪なき者とされるのです。
言ってみれば、今までの「罪」という「借金」が、全部支払われたのです。
これが、イエス様の十字架の贖い(あがない)であり、救いなのです。
イエス・キリストは、33年間の歩みの中で、多くの人々を助け、救い、癒してきました。
その間、自分を助けたり、自分を救ったりすることは一度もありませんでした。
いつもイエス様は、心砕かれた人をお救いになりました。
言いがかりをつけるような人を救うことは、ありませんでした。
イエス様は、二人の犯罪人とともに十字架につけられました。
その時一人の犯罪人は、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言いがかりをつけました。
しかし、もう一人の犯罪人は、「お前は神をも恐れないのか。」と、たしなめて言いました。
そして、自分自身を砕いて、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、
私を思い出してください。」と言われました。
イエス様は、その心を砕いた犯罪人に対して、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
と語られたのです。
イエス様を信じる者が、パラダイスに行くことができるのです。
私たちは、ただ恵みによって、信仰によって救われるのです。
自分を正しい者とするのではなく、また言いがかりをつける者にならないで、
いつでも心砕き、幼子のような心で神様を受け入れる者とならせて頂きましょう。 7/23/2008 十字架の救い ローマ 1:16-17私は福音を恥とは思いません。
福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって救いを得させる神の力です。
なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。
「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。
福音とは何でしょうか。
神様から離れてしまった私たちをもう一度神の子供として取り戻して下さるために、
イエス様が私たちと同じ立場になってこの地上に来て下さり、私たちの罪を全部引き受け、
十字架上で私たちの代わりに死んで下さり、そして死の力を打ち砕いて復活して下さった
…これが福音です。
どんな人であろうと、福音を信じる時に救われるのです。
この『救い』という言葉は、非常に強い言葉です。
私たちは、色々な人々から慰められたり励まされたりします。それはとても大切なことです。
しかし人生には、慰めや励ましや助言では間に合わないということが、沢山あります。
ニュースを見ていたら、川に流されて、中州のような所で3人ぐらい取り残されている状況の中、
ヘリコプターで助けられたという状況がありました。
これが救いです。
もし川岸で、言葉で励ましたとしても、そこには何の力もないでしょう。
でも、実際に誰かが飛び込んだり、ヘリコプターを動かしたりすることによって、救われたのです。
イエス様の救いは、それ以上のものです。
それは、永遠のいのちに関わることです。
人類の最初の人が罪を犯したことにより、神様との間に断絶を生じてしまいました。
罪の性質が、生まれつき血の中に入ってしまっているのです。
しかし神様は、すぐに、その罪から救い出して下さる計画を与えて下さったのです。
イエス様は、あなたのために十字架に架かって下さいました。
あなたの孤独、空しさ、罪、死に対する恐怖、その一切のためにイエス様は救い出して下さいました。
神様の溢れるばかりの恵みを受けて生きることができるのです。
何が起きようと「恵み」なのです。
その時は分からなくても、最善が成されるのです。
神様は私たちに、絶対に最善以下のことはなさいません。
試練の時は辛いかもしれません。
しかし、それによって訓練され、鍛えられた者には、平安な義を結ぶことができると御言葉は約束しています。
聖書は、神様から私たちに贈られたラブレターです。
そして福音は、プロポーズです。
大好きな人にプロポーズされても、それに「はい」と答えなければ、何にもならないのです。
「あなたを愛している。」ただこの愛を受け取って下さい。これが福音なのです。
(HCCカンファレンスでの千田次郎先生のメッセージより) 7/11/2008 水がぶどう酒に変わる ヨハネ 2:1-11イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」
彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」
彼らは持って行った。宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。
ここでは、結婚式が行われていました。イエス様の母マリヤも、そこにいました。
彼女は、宴会で出すぶどう酒がなくなってしまっていることに気づき、イエスに向かって言いました。
「ぶどう酒がありません。」
しかしイエス様は、こう言われました。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。」
つまり、わたしの関心と、ぶどう酒が足りないということとは何の関係もないと言われたのです。
宴会の席でぶどう酒が足りないということは、本当は大変なことです。
私たちも普段の生活の中で、「こんな大事な時に、どうしてこんなことになってしまったのだろう。」
ということはないでしょうか。
その時私たちは、どのように反応するでしょうか。
私たちは何か問題があると、自分で何とか頑張ろうとしやすい者です。
マリヤも、ぶどう酒が足りないという状況の中、何とかしなければと思っていたことでしょう。
しかしイエス様の関心は、どんな状況の中でも、心配しないで神様にゆだねること、
そして神様にまかせることだったのです。
私たちは、神様に求めるという反面、ゆだねること、明け渡すことも大事なのです。
マリヤはその後、手伝いの人に言いました。
「あの方(イエス)が言われることを、何でもしてあげてください。」
そして彼らは、イエス様の言われるとおりに水がめに水を満たしました。
彼らは、イエス様の行うことを何でもしたので、この水がぶどう酒に変わるという
奇跡を見ることができました。
私たちも、イエス様の言われることを、何でも行うことが大切なのです。
神様の栄光があがめられるように、神様の御心がなるようにと祈り求めていくのです。
私たちは、どんなに自分で頑張っても、本当の喜びというものは得られません。
そうではなく、聖霊の力によって喜びあふれる者とならせて頂くのです。
「何かが足りない。」ではなく、イエス様によって、すべて与えていただくのです。
聖書には、他にもたくさんの奇跡が出てきます。
クリスチャン生活は、奇跡の連続なのです。
毎日毎日、私たちはイエス様とともに、奇跡を見させて頂くのです。
あとからあとから、良いもので満たされる…これがクリスチャン生活です。
心配することはないのです。
すべてを神様にまかせる中で、たくさんの恵みを、そして奇跡を見させて頂きましょう。 6/30/2008 真剣な求め ローマ 9:3もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私が
キリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。 パウロは、同国人の救いに対する祈りは、痛みのある祈りでした。
その痛みをもって、熱い心をもって、主の前に出ていました。
「何とかして、この人たちに救いを下さい。」と祈ったのです。
「私がのろわれてもいいので・・・。私はどうなってもいいので、同胞を救って下さい。」
・・・このような祈りの姿勢、あなたにあるでしょうか。
それとも、自分のためだけに祈っていたでしょうか。
日本の多くの人は、まだイエス・キリストの救いに預かっていません。
皆さんの家族・親族・友達、それらの人々のために、本当に熱い心を持って祈っていますか。
モーセが、シナイ山にのぼって神様と交わっている時、民は偶像を造ってたわむれていました。 ニコデモは、誰から見ても素晴らしい人物でした。 (HCCカンファレンス礼拝での、榊山清志先生のメッセージより) 6/23/2008 イエス様こそ「宝」 コリントⅡ 4:7私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。
それは、この測り知れない力が神のものであって、 私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。 ここでいう「土の器」とは、私たちのことです。
そして、「宝」とは、イエス・キリストご自身を言います。
私たちの内側には、この宝が隠されているのです。
アメリカでのお話です。一人の、貧しい生活を強いられている人がいました。
彼は、生活保護を受けなければならない状況でした。
しかしある日、調査を受けたところ、その人の土地の下には油田があるということが分かったのです。
その人は貧しい生活から一転、大金持ちになったというのです。
私たちは、イエス・キリストを信じて歩む中で、この油田とは比べものにならないほどの、
素晴らしい宝を持つことができるのです。
熱心に信仰生活を送ってきたクリスチャンがいました。
彼は、一生懸命奉仕をしているのですが、今ひとつ、元気や喜びが湧き上がってきませんでした。
彼はある日、夢の中でイエス様に出会いました。そして、イエス様にこう言われたのです。
「今日、あなたの家に行くから、あなたの家のカギを全部くれないか。」
彼は、家中のカギをイエス様に渡しましたが、イエス様は「これで全部なのか?」と問われたのです。
彼は、たった一つ、自分の部屋のカギを渡していなかったのです。
イエス様は、こう言われたのです。「わたしは、あなたという部屋の中に入りたいのだ。」
イエス様が心の中に入って下さる時、何か特別なことがないようであっても、
喜びが湧き上がってくるのです。
クリスチャン生活の素晴らしさは、自分の力で歩まなくてもよいということです。
嵐のような出来事に遭遇しても、イエス様は支えて下さり、確かな道を与えて下さるのです。
多くの人が、「器」というものを気にします。
しかし、器よりももっと大事なのが、「その中に何が入っているか」ということなのです。
たとえ高価なコーヒーカップであっても、泥水が入っていたら、台無しになってしまいます。
逆に、高価なカップでなくても、心のこもったコーヒーであれば、おいしく味わえることでしょう。
私たちが土の器であっても、その中には宝があるのです。
神に力があるのです。御言葉に力があるのです。この宝には、測り知れない力があるのです。
私たちの存在がどうであれ、イエス様が宿って下さるとき、恵みが与えられ、
元気に明るく生きることができるのです。 6/19/2008 アバ 父 ローマ 8:15-17あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、
子としてくださる御霊を受けたのです。
私たちは、御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。 「アバ」というのは、イエス様がこの地上で使われたアラム語
(イスラエルの一部地域で使われた言葉)であり、「お父さん」という意味です。
私たちは、神様の声を聞くことができる子供として、聖書では紹介されています。
声というのは、すごく重要なものです。
メールだと遠い所にいるように感じても、電話などで声を聞くと、
すごく近くいるように感じるものです。
声というのは、その人を癒し、力づけることができます。
私たちは、天も地も造られた偉大な神に対して、「お父ちゃん」と呼ぶことができ、
祈り求めることができるのです。
私たちは、神の相続人(17節)となるのです。
つまり、すべての資産を持っている神様のあとつぎとなるのです。
私たちは、必要なものを何でも、天のお父さんから、
イエス様の名によって頂くことができるのです。
信仰の口を大きく開けて、すべてのものを頂くことができるのです。
神様は、私たちを霊的に産んで下さった『産みの親』です。
マタイ6:31にはこうあります。
「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何をきるかなどといって
心配するのはやめなさい。」
神様は、私たちの生活に必要なものはすべてご存知です。
父として私たちを愛し、心に留めて下さっているのです。
また神様は、私たちを育てて下さる『育ての親』です。
マタイ5:45には、こうあります。
「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、
正しい人にも正しくない人にも雨を降らせて下さるからです。」
神様は、生きるために必要なものをすべて与えて下さいます。
すべてのものは神様からのプレゼントです。
そして神様は、私たちを救って下さった『救いの親』です。
ヨハネ3:16には、こうあります。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは
御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
多くの人たちは、神様を離れ、罪の中で生活しています。
世界中で起こる様々な事件の源は、罪です。
父なる神様は、たった一人の御子であるイエス様を、この地上に遣わして下さいました。
イエス様は私たちのすべての罪を背負い、十字架上でその罪を贖って下さいました。
私たちは、イエス様を信じることにより、永遠のいのちを頂き、天国に入ることができるのです。 6/10/2008 網を右におろしなさい ヨハネ 21:1-11イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、
とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、 網を引き上げることができなかった。 イエス様が言われた「右側」というのは、神様の側のことをいいます。
逆に「左側」というのは、人間の側のことをいいます。
「わたしとともに歩みなさい。」「わたしから離れてはいけない。」
…これが、イエス様のペテロに対するメッセージであり、
私たちに対するメッセージでもあったのです。
ペテロは、プロの漁師でした。
いつどこに、どんな状況の時に行けば魚がとれるのかが、よく分かっていました。
しかしその夜は、何もとれませんでした。
私たちの生活の中にも、そのようなことはないでしょうか。
「何も起こらなかった。」「何も実を結ぶことができなかった。」
…イエス様は、何もうまくいかなかった時であっても、失敗してしまった時であっても、
いつも、ともにいて下さるのです。
「私なんか、何もできなくて…もうだめだ!」…このような状況の中でも、イエス様は、
あなたの横に立って下さるお方なのです。
イエス様は、どんな状況の中でも、私たちを愛して下さり、私たちとともにいて下さるお方なのです。
失敗すると、心に傷が残り、もう、そのことをやりたくなくなるということはないでしょうか。
ペテロが置かれた状況も、そのようなものでした。
しかし彼は、かすかな信仰を持ちました。
夜通し働いたけど何も取れなかった、収穫はゼロだったのですが、
「舟の右側に網をおろしなさい。」というイエス様の声に対し、
「はい、やってみます。」と告白し、実践されたのです。
ペテロがイエス様の声に聞き従って、右側に網をおろした時、153匹もの魚が取れたのです。
それも大きな魚です。しかも、その重量は、ちょうど網が耐えられるだけの重量であったし、
また、舟の積載量とちょうどぴったりだったのです。
私たちの様々な働きの中で、「本当に、このままでいいのだろうか。」と思うことはないでしょうか。
そのような時でも、隣にいて下さる方が、イエス・キリストなのです。
たとえ失敗してしまった時も、「心配するな。恐れるな。わたしがあなたを支えるから。」と
イエス様は語って下さり、もう一度前へ向かわせて下さるのです。
私たちのやることなすこと、すべてを祝福して下さる方が、イエス・キリストなのです。
「ああ、こんなに素晴らしいことを主は成して下さるのか。」という中で、
神様は信仰生活を楽しませて下さるお方なのです。 6/6/2008 信じるとこうなる ルカ 4:18-21イエスは人々にこう言って話し始められた。
「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」 イエス様を通して頂く希望とは、何でしょうか。
一つは、貧しい人々が豊かになるということです。
もともと人間は、貧しく生まれたのではありません。万物の支配者として、一番豊かな者として造られました。
しかし、のろいが来て、貧しくなってしまいました。
そののろいの原因が、罪です。
罪を犯したが故に、人間は堕落し、心も体も貧しくなり、環境がのろわれ、
人間の人生も短くなってしまったのです。
しかし、イエス様は、私たちのかわりに罪を背負って、償って下さいました。
イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちは罪を帳消しされ、きよい神の子供に戻ったのです。
罪がきよめられ、赦された人は、考えが変わるようになります。
自分のセルフイメージが高くなります。
言葉が変わり、信仰やビジョンも変わってきます。
「私はもうダメだ。」と言っていた人も、「もはや私たちは貧しくない。私は、神の子供となった。」
と認めるようになります。
現在世界一の金持ちであるウォーレン・バフェット氏は、自分の財産の80%を神様にささげました。
そして世界中の貧しい人たちを救済する団体を作りました。
そして今年、世界一の金持ちになったのです。
「いずれ私は金持ちになる。」と彼は信仰を持っていました。
その確信は、イエス・キリストを信じる信仰から来ていました。
彼の哲学は、聖書にしっかり基づいたものだったのです。
イエス・キリストを信じると、悪魔の呪いが消え去ります。
あなたは富むようになります。経済的にだけではなく、人間関係も富みます。
呪いから解放され自由になり、すべての恐れ、不安、悩みから解放され、病気も癒されるのです。
私たちの心は、真空のようなものです。何かで満たされないと、飢え渇いて苦しいのです。
その飢え渇きを、肉の思い、淫欲ばかりで満たしてしまう人もいます。
また、悪霊や、否定的な思いでいっぱいになり、うつ病になってしまう人もいます。
そうではなく、聖霊で満たさなければならないのです。
聖霊で満たされた時、心が解放されます。自由になるのです。心の病は消え去ります。
聖霊が満ち潮のように、あなたの心を満たして下さいます。
その時、悪霊は追い出されます。引き潮のように出て行きます。
イエス様が、力と愛と希望と祝福を持って、私たちを満たして下さり、癒され、解放されるのです。
聖霊の力が注がれるように、大胆に祈り求めていきましょう。
(HCCカンファレンス礼拝での、卞在昌先生のメッセージより) 5/21/2008 希望 テモテⅠ1:1、エレミヤ29:11私たちの救い主なる神と私たちの望みなるキリスト・イエス。
私はあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ。― それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
私たちは、生活していく中で様々な困難や問題にぶつかります。
八方ふさがりのような状況の中で、希望が失望に終わってしまう人が、案外大勢いるのです。
あなたの希望は、失望に終わっていないでしょうか。
どんな苦しみや困難の中であっても、希望を持つ中で、私たちは力を得、前進できるのです。
ドイツの神学者、ユルゲン・モルトマン氏は、自分の神学を「希望の神学」と呼んでいました。
第二次世界大戦の中、17歳の時彼は戦争に行き、捕虜となってしまいました。
そればかりでなく、自分の故郷が爆撃を受け、家族もみな亡くなってしまったという知らせを聞いたのです。
彼はまさに、生きていく望みを全部失ってしまいました。
自殺をも考えた彼でしたが、一人の牧師から聖書をもらい、聖書を読む中で変えられていったのです。
イエス・キリストは、人々を癒し、様々な良い業をなされましたが、人々はイエス・キリストを十字架につけました。
弟子の一人は全くイエス様を裏切ってしまい、他の弟子たちも身の危険を感じて、逃げてしまいました。
モルトマン氏はその光景を思い描く中で、自分のおかれている絶望と、全く同じだと感じたのです。
イエス・キリストは、壮絶な死を味わいました。
絶望のどん底の中の死でしたが、三日後によみがえられました。
キリストは、あの絶望の中から、復活されたのです。
モルトマン氏は、自分もあのキリストを心の中に持つなら、復活できるのだと望みを持ったのです。
そのような中で、「希望の神学」は生まれたのです。
本当の望みとは、神様です。イエス・キリストです。
このお方と共に歩んでいく時に、私たちは、本当の望みを、本当の希望を持つことができるのです。
ダビデは言いました。「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。」(詩篇119:71)
苦難や患難を通ってこそ、夢・ビジョン・願いは叶うのです。
苦難というトンネルを通った時、祝福の道が開かれるのです。
残念ながら、苦難の中で心が曲がってしまう人もいるのです。
私たちは、苦難を正しく捕えていく必要があります。
苦難は、私たちの自我を砕き、今まで見出すことのできなかったことを見出し、そして神を見出すものなのです。
(HCCライブチャーチ名古屋教会 牧師 竹内徹先生のメッセージより) 5/13/2008 喜ばせる 箴言 23:25あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。
授業参観日を迎えるにあたって、ある女の先生は、
どうしたらクラス全員の親が希望にあふれることができるだろうかと考えました。
そして、良い考えが浮かびました。
先生の質問に対し、答えが分かったら5本指を広げて手を挙げる、
合っているかどうか自信がなかったら3本指を出して手を挙げる、
全然分からなかったらグーを出して手を挙げるようにと生徒たちに伝えたのです。
つまり、クラスの全員が手を挙げるようになるのです。
そして、参観日当日がやってきました。
先生が約束したとおり、クラスの全員が手を挙げました。
それを見て、普段、勉強ができない子供の母親も、自分の子供が手を挙げていると喜んだというのです。
先生は、5本指を出して手を挙げている生徒だけ当てたのです。
神様の愛は、このような愛です。
私たちが色々なことができるというよりも、「神様、助けて下さい。」と単純に求めることを、
神様は喜ばれるのです。
神様は、このように、お母さんのような愛を持っているお方なのです。
あなたのお母さんが、一番喜んだ日…。それは、あなたがこの地上に生まれた日ではないでしょうか。
『五体不満足』を書かれた、乙武洋匡(おとたけ ひろただ)さんは、手足がない状態で生まれました。
しかし彼の母親は、そのような重い障害をもって生まれた彼を見た時
「まあ、かわいらしい。」と言ったのです。
彼は、母親の大きな愛の中で育ち、今では、テレビのキャスターなどを務め、活躍しています。
神様は、私たちが、神の子となって歩むことを心から望んでいます。
上の御言葉で、「あなたの父と母を喜ばせ」とありますが、どうしたら喜ばせることができるのでしょうか。
それは、父母に感謝することです。それから、父母を敬うことです。そして、神様の愛を届けることです。
これらのことは、父母を喜ばせることでもありますが、神様が望んでいることでもあり、祝福への近道なのです。
今日は母の日ですが、お母さんに感謝すると同時に、お母さんを与えて下さった神様に感謝しましょう。
エペソ2:10には、「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって
造られたのです。」とあります。
自分の頑張りで、人を愛したり赦したりすることはできません。
しかし、イエス・キリストが力を与えて下さり、人を赦し、愛し、励ますことができるようになるのです。
私たちはみな、神様の素晴らしい作品です。神様の大きな愛の中で、前進させて頂きましょう。 5/9/2008 神の選び ローマ 9:11-13その子供たちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、
神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、
「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。
ヤコブを愛し、エサウを憎む…。神様は不公平な方だと、思われるでしょうか。
しかし、14節には、「神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。」とあります。
私たちは、ただ恵みによって救われ、選ばれたのです。
ある金持ちが、孤児院を訪れました。
そこには沢山の子供がいるのですが、その中から金持ちは、一人の子供を選びました。
選ばれたその子供は、金持ちの子供になり、両親の財産を受け継ぐ、相続人となりました。
選ばれたその子供は、一日のうちに、全く身分も状況も変わるのです。
その子供が何か特別なことをやったのではなく、金持ちの人に、ただ選ばれただけなのです。
神様が、それと同じだというのです。
主が私たちを選んで下さったのは、私たちが頑張ったからでも、何か秀でていたからでもなく、
ただ恵みによってなのです。
因果の図式が深く根を張っていると、恵みの裏側には何か原因や理由があるはずだと分析したがるのです。
挙句の果てには、先祖や家系のところまで考えがいってしまいます。
聖書はこれらの考えを、「律法主義的な考え」だと明確に言っています。
私たちがその中にいるのなら、これは大きな間違いです。
聖書の中にヨブ記というところがあります。
全てを失い、体にできものができたヨブに、友人たちは、
「お前は神様に対して愚かだったからこうなったのだ。何か悔い改めることがあうのではないか。」
などと言って、ヨブを責めました。
これはこのせいで、あれはあのせいでこうなっている。…
このような考え、律法主義の上に立っている以上、恵みというものは流れてこないのです。
私たちは恵みによって救われ、選ばれ、祝福されている。
私たちは、その恵みの中で生活させて頂くのです。
そして、この恵みがよく分かり、それを感謝して歩んでいく中で、聖書にある恵みをもらい始めるのです。
「わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。(出エジプト記33:19)」とあります。 自分を見ていじけている方はいらっしゃいませんか。
そうではなく、恵みによって救われた私たちは、恵みによる生活をさせていただき、
聖書にあるすべてのものをもらっていくのです。
(HCCカンファレンス礼拝での榊山清志先生のメッセージより) |