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30/09/2008 主を待ち望み、主を賛美する。 詩篇 40:1-3私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、
私の叫びをお聞きになり、私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。 そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。 主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。 多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。 切なる願い…私たちの人生の中で、どのようなものがあるでしょうか。
家族の救い、経済的なこと、仕事が与えられること、結婚のこと…様々なことがあるでしょう。
神様はいつもともにいて下さり、私たちに素晴らしい恵みを与えて下さいます。
祈りがこたえられる前には、様々な「産みの苦しみ」や忍耐の期間を通ることでしょう。
しかし、その期間をも楽しみながら、主に期待しながら待ち続けるのです。
イザヤ40:31にあるように、主を待ち望む者は新しく力を得ることができるのです。
苦しい時も、主を賛美し、感謝し、待ち望んでいくのです。
神様は、私たちの声を聞いて下さるお方です。
それとともに、私たちも神様の声を聞いて歩んでいくことができるのです。
主は私の羊飼い。(詩篇23:1)…そのような賛歌を書かれた羊飼いダビデも、
自分の羊一匹一匹に名前をつけました。
羊は、牧者の声を聞き分け、牧者は、自分の羊をその名で呼んで連れ出すのです(ヨハネ10:1-3)。
神様と私たちとの関係も同じで、神様は私たちの一番近くにおられ、名を呼んで下さるお方です。
そして、自分でもがいてもどうしようもないような、滅びの穴から、泥沼から引き上げて下さるお方です。
苦しいこと、誰にも言えないようなことも、主の前では話すことができるのです。
また、神様は私たちに「新しい歌」つまり、神様をほめたたえる歌を与えて下さいました。
この世で流行っている様々な歌には、それぞれ色々な深い意味があるでしょうが、
人生に対する「解決」はないのです。
しかし、賛美には「解決」があるのです。
苦しい時も、絶望の時も、神様を賛美したら、そこに解決があるのです。
力が湧き、喜びが湧き上がってくるのです。
私たちが祈る祈りに、主はこたえて下さいます。悩んでいないで、主を賛美したらよいのです。
生活していく中で、何か言われたり、侮辱されたりすることもあるのかもしれません。
しかし、何か言われても、気にしないで、感謝して、主を賛美しながら前進していったらよいのです。
すべてを感謝していくのです。
「このことを通しても、神様は必ず素晴らしいことを成して下さることを心から感謝します。」と
主をほめたたえ、賛美をしていくのです。
解決は、「主」にあるのです。 23/09/2008 神様に導いていただく人生 詩篇 37:23-26人の歩みは主によって確かにされる。
主はその人の道を喜ばれる。 その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。 主がその手をささえておられるからだ。 ダビデは、自分が道を切り開いたのではなく、
神様が道を示し、開いて下さったのだということを悟りました。
神様とともに歩む者が、バカを見ることは決してありません。
神様に口出しするのではなく、すべてを明け渡し、神様に導いて頂くのです。
答えは、聖書の中にあります。
この「答え」である「聖書」の恵みの中を歩んでいくのです。
様々な生活の中では、マイナスに見える出来事もあるでしょう。
しかし、イエス・キリストによって開かれる時、マイナスに見える出来事もプラスに変えられ、
神様の恵みを頂くことができるのです。
イエス・キリストは、よみがえられました。
そして、今も生きておられ、私たちに恵みを与えて下さり、確かな道を与えて下さるお方なのです。
箴言16:3には、「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」
とあります。
また、箴言16:9には、「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを
確かなものにするのは主である。」とあります。
信仰生活というものは、時間が経てば段々に答えがわかってくるというものではありません。
もうすでに、答えは出ているのです。
答えは一つだけです。それは、イエス・キリストにつながる道なのです。
なぜ、信仰から離れたり、浮き沈みのある信仰生活をしたりしてしまうのでしょうか。
それは、その人が神様から目を離してしまうからです。
ダビデはいつも、自分の前に主を置いたのです。(詩篇16:8)
主にしっかりつながっていたら、よろけることはないのです。
あとは、神様が責任を持って下さるのです。
「自分」というものが前に出ると、迷うのです。
いつもびくびくしている人は、神様を後ろに置いているのではないでしょうか。
また、神様を上に置いていて、神様を上官のように思っている方はいらっしゃらないでしょうか。
また、神様を下に置いていて、ご利益を願うように、神様を自分に従わせようとしている方は
いらっしゃらないでしょうか。
また、神様を横においていて、成長しなくても実が結ばれなくても、マイペースに
「これも御心だ」という信仰生活を送っている方はいらっしゃらないでしょうか。
どれも違うのです。
ダビデの姿にならい、私たちも神様を自分の前に置き、従順に従う者とならせて頂きましょう。 16/09/2008 残された者 ローマ 11:5それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。
恵みの選びによって残された者とは、
神様の選びによって、主の恵みがわかる者、見える者、開かれた者ということを意味しています。
恵みがわかる人、開かれた人は、主に対する悟りがあるのです。
御言葉を聞く中で、賛美の中で、祈りの中で、喜びや感謝や恵みがあふれてくるのです。
逆に、神様の恵みがわからないという状態は、本当に惨めです。
御言葉を聞いても硬くなり、賛美の中でも祈りの中でも、主に触れることが出来ない状態なのです。
その中には少しの感動もなく、悟りもないのです。
聖書の中で、イスラエルの民が出てきます。
エジプトから出てきてカナンの地に向かう中で、驚くような奇跡を沢山見てきました。
この中で開かれている人は、いつでも主のほうに目が向きました。
しかしイスラエルの多くの民は、「うなじのこわい民」といわれているように、
その恵みより、目の先のことしか見えなくて、いつも不平不満を言っていました。
いつも心硬くし、悟りがなかったのです。
イスラエルの民がカナンの地に入る時に、最初12人の斥候をカナンの地に遣わしました。
40日間その地を歩んで帰ってきた時に、10人と2人とに意見が分かれました。
10人は、「そこには巨人がいて、行ったらやられてしまうので、行かないほうがいい。」と言いました。
しかし、ヨシュアとカレブの2人は、「行きましょう。やりましょう。主が約束しているから。」と言ったのです。
この2人は、開かれた恵みの中にあったので、語る言葉からして違ったのです。
アブラハムの息子は、全部で8人いました。
主はアブラハムに、「あなたの子孫に祝福を与える。」と言われました。
しかし、8人の息子全員がもらったわけではなく、イサクだけがその恵みをもらったのです。
イサクが、神に選ばれた者、開かれた者、残された者となったのです。
エリヤの時代、バアルとアシェラ、計850人との戦いがありました(Ⅰ列18章)。
その中でエリヤは大きな戦いに勝利をされました。
そして、「バアルにひざをかがめていない男子7000人がとってある(ローマ11:4)。」
と神様は言われたのです。
この7000人が残された者、開かれた者だったのです。
ダビデが心の底から望んでいたこと。
それは、いつまでも主の家に住んでいること、主との交わりが生きていることでした。
同じように私たちも、恵みに開かれていくのです。
いつでも、主の恵みが分かる者とならせて頂きましょう。
(HCCカンファレンス礼拝での、榊山清志先生のメッセージより) 09/09/2008 御言葉に聞き従う祝福 ローマ 4:18-25彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。
それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、 彼があらゆる国の人々の父となるためでした。 信仰は、一人ひとりが、つかむものです。
自分の枠やできる範囲の中でしかチャレンジしない人と、
人間的には到底できないようなことにチャレンジする人とでは、大きな差が出てきます。
私たちは、大きな信仰を持たせていただく必要があるのです。
信仰と生活がバラバラになってはいけません。
すべてを神様からいただいて、「信じて、生きる。」。これが信仰生活です。
アブラハムが神を信じたのは、決して良い状態の中で起きたわけではないのです。
彼は、望み得ないときに望みを抱いて信じたのです。
75歳のアブラム(後のアブラハム)に、あなたは生まれた街を出なさいと、
神様は言われました(創世記12:1-4)。
出て行くところも知らずに、アブラハムは出て行きました。
一日一日、神に示されるとおりに、彼は出かけて行きました。
神とともに歩んでいるならば、望みえないような状況の中でも、失望は決してないのです。
神様に聞き従う時、神様が責任を持って下さり、素晴らしい道を用意して下さるのです。
神様は今も生きておられ、私たちを導いて下さるのです。
アブラハムには、その後も、神様からの信仰のテストがありました。
神様は、空のたくさんの星を見せ、また海辺の砂を見せて、
「あなたの子孫はこのようになる」とアブラハムに言われました。
彼はその中で、本当に望みを抱いていました。
しかし、これらの出来事の後、神様はアブラハムに、息子のイサクを
全焼のいけにえとしてささげるように言われました。
一見、無茶苦茶に見える出来事です。
しかし、アブラハムは、神様に言われるとおり、イサクをささげに出かけました。
そして、まさに刀を取ってほふろうとした時、神様は
「あなたの手を、その子に下してはならない。」と言われたのです。
そして、代わりに全焼のいけにえとして、一頭の雄羊を与えられたのです。
そして、アブラハムを大いに祝福し、子孫を増し加えることを約束されたのです。
神様はイサクを殺すつもりではありませんでした。
本当にわたしに従うのか、その心を見たかったのです。
私たちは、どのような状況の中でも、御言葉によりすがって、前に進んでいくのです。
神様から目をそらさないで、神様を見つめ続けながら前進していくのです。
これこそが、私たちのクリスチャン生活です。 03/09/2008 信仰の目を開く ヘブル 11:1-6信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神がおられることと、 神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
フロリダ州・オーランドにディズニーランドが完成した時、
ウォルト・ディズニー氏は、既にこの世を去っていました。
周りの人々は、彼の奥さんに言いました。
「旦那さんが生きていたら、見せてあげたかったね。」
しかし、彼の奥さんはこう言ったのです。
「主人は、見ていました。見ていたから、造ることができたのです。」
彼は、まだ完成していないディズニーランドを、すでに見ていたというのです。
信仰とは、目に見えないものを手に入れることです。
私たちは、この、信仰の目が開かれることの大切さを、よく知らなければならないのです。
創世記の4章には、アダムとエバの子である、カインとアベルのささげ物について書かれています。
神様は、弟のアベルのささげ物には目をとめましたが、
兄のカインのささげ物には全く目をとめませんでした。
二人のささげ物の違いは、その「ささげる心」にありました。
カインのささげ物には、神に対する「感謝と信仰」はありませんでした。
しかしアベルは、心の底から喜んで、最良なものを「感謝と信仰」をもって、
神への従順な心をもってささげたのです。
神様は、そのアベルの心を見られたのです。
信仰とは、もちろん「信じること」ですが、同時に、神様をあがめることなのです。
いくら信仰を持っても、自分の考えや自分の良し悪しの基準、
自己流の信仰では受け入れられません。
その中で、神の御名があがめられなければならないのです。
マタイの福音書の8章には、百人隊長がイエス様の前に懇願する姿があります。
彼は、自分のしもべが病で苦しんでいる中で、イエス様にただ「おことばをください。」と言いました。
イエス様が直接行かなくても、ことばがもらえれば、私のしもべは直ると信じたのです。
イエス様は百人隊長に、「さあ、行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」と言いました。
彼はイエス様の言われるとおりに信じ、ちょうどその時、しもべはいやされたのです。
祈りがこたえられる人と、こたえられない人。その違いは、信仰があるかないかにあります。
神様は、今も生きておられ、私たちに素晴らしい恵みを与えて下さるお方です。
そのことを信じることが、信仰なのです。
信仰がなくては、神に喜ばれることはできないのです。
神様が与えて下さるものは、最善のものです。
私たちは、どのような状況の中でも、主から目を離さないで歩む者とならせて頂く必要があるのです。 |
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