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31/08/2009

しっかりしなさい     マタイ14:22-33

 
 
弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、
「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、
恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、
「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。
 
 
 
どんなクリスチャンであっても、最初から立派な信仰者である人はいません。
最初は疑ったり信じなかったりする中で、色々なところを通って、
神様はどういうお方なのかを知る者となっていくのではないでしょうか。
神様は、色々なところを通してでも、私たちを全き信仰者として下さるお方です。
一つ一つの出来事を通して、何かを教えようと、信仰者にしようとして下さるお方です。
 
イエス様は、5つのパンと2匹の魚で男だけで五千人が満腹になったという奇跡を、
群集に対してなされました。
群衆が帰っていった後で、今度は、弟子たちに対して信仰の訓練をされました。
イエス様は、弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、自分は祈るためにひとりで山に登られました。
夜中の三時ごろ、イエス様は湖の上を歩いて、弟子たちの前に現れました。
その姿を見て弟子たちは、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまったのです。
そのような彼らにイエス様は、「しっかりしなさい。」と言われました。
 
 
「しっかりしなさい。」
・・・これは何も、「自分の力でしっかり頑張りなさい」ということではなく、
「神の力を頂いて、勇気を出して前に向かいなさい」という意味なのです。
 
弟子たちの中の一人であるペテロは、イエス様の声に応答しました。
「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、
とお命じになってください。」
イエス様は「来なさい。」と言われました。
ペテロのその姿勢は、素晴らしい信仰の姿勢でした。
しかし彼は、目で見てはっきり分かるほどの風を見て、恐れてしまったのです。
ペテロは「主よ。助けてください。」と言いました。
イエス様はそれに対し、「信仰の薄い人だな。」と言われたのです。
 
信仰生活の中で、色々な問題を見て恐れる者や、
その問題の解決だけのために祈る者になっていないでしょうか。
そうではなく、「この問題を通して、沢山の恵みを下さい!」と祈り求めるのです。
これこそが、私たちの祈りです。
様々な目に見える問題や試練の中で砕かれて主を見上げる時こそ、
主ご自身が信仰を成長させて下さるのです。
彼が書いたペテロの手紙の中には、
「信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、
イエス・キリストの現われのときに賞賛と光栄と栄誉に至るものであることが分かります。」
(Ⅰペテロ 1:7)とあります。
解決はイエス様に、そして御言葉にあります。
主に目を向けていく中で、恵みを沢山頂く者とならせて頂きましょう。
26/08/2009

最後まであきらめない          ヘブル 10:35ー36

 
 
ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。
それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなたがたが神のみこころを行なって、
約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
 
 
 
私たちには沢山の、願いや祈りの課題があります。
しかし、最初は一生懸命祈って取り組んでいたものの、
途中から現実ばかりが見えて、諦めてしまったということはないでしょうか。
最後まで信じ通すこと、諦めないことが大切なのです。
人々の救いのために、福音のために、大胆に祈り求め、挑戦させて頂くのです。 
 
聖書には、最後まで諦めないで恵みをもらった人が沢山います。
その中の一人であるアブラハムは、最初はアブラムという名前でした。
彼は75歳の時、神の声を聞き、自分がどこに行くのかも分からないで、
ただ神の声を聞きながら、自分の生まれ故郷を出て行きました。
アブラムは、自分の故郷を出て神様の声に従って歩んでいった後も、
信仰を試される様々な時がありました。
ある時、神のことばが幻の中でアブラムに現われ、
「あなたの子孫は、空の星のようになる(増え広がる)。」と語られました。
現実にはまだ、何もそのようなことは起きていなかったのですが、
アブラムはその神のことばに導かれました。



やがて、アブラムの本妻ではない、女奴隷ハガルとの間に子供が生まれました。
その子はイシュマエルと名づけられました。
それはアブラムが86歳の時でした。
そして99歳の時、神様はアブラムに現われ、
「あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、アブラハムとなる。」と語られました。
彼は、女奴隷との間に与えられたイシュマエルを通して
そのことが成されるようにと願っていましたが、神様の答えは違いました。
イシュマエルではなく、妻サラを通して与えられる子供が跡取りになると語られました。
サラは高齢でしたが、翌年、アブラハム100歳、サラ90歳にして、
息子イサクが与えられました。


アブラハムの最終試験は、息子イサクを神様のためにいけにえに奉げることでした。
神のことばに従い通し、たきぎを背負って山に登り、
まさにイサクを刀でほふろうとした時、主の御使いが現われ
「あなたの手を、その子に下してはならない。あなたが神を恐れることがよく分かった。」
と言われたのです。
アブラハムは、まさに、望み得ないときに望みを抱いて信じたのです。


最後まで諦めない人々に神様は、祈りの答えを与えて下さいます。
私たちも主のみことばを通して信仰を働かせ、
約束のみことばは必ず成就することを信じていきましょう。
忍耐を持って祈り続け従い続ける中で、主が業を成して下さいます。
すべてを恵みに変えさせて頂き、天国を見上げて前進させて頂きましょう。

18/08/2009

神を待ち望む      詩篇 62:5

 

 

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。

私の望みは神から来るからだ。

 

 

 

神を待ち望むこと…これこそが最善の姿勢であり、また最強の姿勢であるのです。

困難な状況が起きる時、また切羽詰った状況が起こる時、

待つことができなくて、自分で色々と動いてしまうということはないでしょうか。

聖書には「神を待ち望む」とあるのです。

様々な問題も困難も悩みも、神がそれに対して解決を与えて下さるのです。

 

 

モーセの時代に、エジプトから出されたイスラエルの民をエジプトの軍勢が追いかけてきた時、

前には紅海があり、イスラエルの民は追い詰められ、もう、なすすべがない状況を見ました。

イスラエルの民はエジプトにいる時に、様々な奇跡を見たのです。

しかしこのような現状を見る中で、イスラエルの民は、

そのような神様の素晴らしい奇跡はすべて忘れてしまい、

目の前の現状にうろたえてしまったのです。

私たちの心の中にも、そのようななすすべがない、また切羽詰った状況を持つ時があります。

生活の中にも、そのような、なすすべがない状況を持つ時があります。

もう自分では、どうすることもできない状況です。

 

 

問題や困難の前に、どうすることもできない状況…。

神様はそのような中で、「じっとしていなさい。」「神を待ち望みなさい。」と言っておられるのです。

「じっとしていなさい。」とは、「なげやりになる」ということではありません。

私たちに神が働かれる、神様がことを成す…このことを語っておられるのです。

主は、生きておられるのです。

 

 

今日、このところに立っておられますか。

もし、様々な現実の中でうろたえているのであれば、神を待つという所に立って、

そこから動かないで、主に向かい始めて下さい。

主が生きておられること、主が働かれることを体験させてもらうのです。

問題のほうに目を向けないで、神を見上げるのです。

神だけに目を留めながらその中で進んでいく時に、主が業を成して下さるのです。

 

 

イスラエルの民がうろたえてしまった時、モーセは神を見上げてその杖をかざしました。

その時に奇跡が起こりました。

紅海が分かれ、そこに道ができたのです。

イスラエルの民はその道を進んでいくことができ、

エジプトの軍隊は、みな海の中に沈んでしまったのです。

神がその中に、働いて下さったのです。

 

 

神様は私たちのことをすべてご存知で、私たちを最善の中に導いて下さり、

困難や問題から救い出して下さるのです。

今日、しっかりと御言葉に立って、神を見上げて歩む者とならせて頂きましょう。

 

(HCCカンファレンス礼拝での榊山清志先生のメッセージより)

10/08/2009

キリストの苦しみの欠けたところを満たす   コロサイ 1:24-29

 
 
ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。
そして、キリストのからだのために、私の身をもって、
キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。
キリストのからだとは、教会のことです。
 
 
 
自分の欠けたところが分からずに、他人の欠けたところばかりに目が行くと、
他人をさばくようになります。
そうではなく、謙虚になって自分の欠けたところが分かるようになると、
人を生かすことができるようになります。
マタイ19:16-26の箇所で出てくる青年は、律法をよく守っている真面目な青年でしたが、
「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。」というイエス様の呼びかけに、
応答することができなかったのです。
この青年は、自分には欠けたところがないと思っていたのでしょう。
しかし彼には、与える姿勢が欠けていたのです。
私たちの生活の中に、そのような姿勢は、ないでしょうか。
 
イエス・キリストは、完全に神の手に、そして人の手に明け渡され、十字架に架かられました。
あんなに苦しまれたのにも関わらず、まだ欠けたところがあるのだと、聖書は教えているのです。
それは一体、何でしょうか。
 
それは、人々の救いです。
イエス・キリストは、全世界の全ての人々のために苦しみを負って下さいました。
でも、まだ救われていない人もいます。また、イエス・キリストに反逆する人もいます。
この福音のために、人々の救いのために苦しんでいるのだと、パウロは語られました。
 
パウロは、教会に仕える者となり、神の言葉を余すところなく伝える者となりました。
私たちも毎日、イエス・キリストを宣べ伝えさせて頂くのです。
そのために教会があるのです。
私たちクリスチャンは、「呼び出された者」の集まり、選ばれた者の集まりなのです。
教会は、キリストのからだです。
ここからキリストの福音が届けられることに、教会の存在があるのです。
 
イエス・キリストは十字架に架かられ死なれた後、よみがえられ、後に、天に上げられました。
今、聖霊様が私たちの心の中に宿る…これは、内住のキリストです。
私たちがどこに居ても、どのような状態であっても変わらない、
内住のキリストがともにおられるのです。
これこそが「奥義」であると聖書は言っています。
イエス・キリストから見たら異邦人である私たちであるのにも関わらず、
内側に住んで下さり、心の中に宿って下さるのです。
すべての解決が、すべての勝利が、教会にはあるのです。
教会のかしらは、イエス・キリストです。
イエス・キリストの恵みが教会に満ちあふれている中では、
解決できない問題や勝利できない問題は、一つもないのです。
人々の救いもそうです。
ありとあらゆる方法を通して、イエス・キリストを宣べ伝える者とならせて頂きましょう。
05/08/2009

将来と希望を与える計画     エレミヤ 29:11

 
 
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。
それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、
あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
 
 
 
私は、将来の仕事について、何も考えてはいませんでした。
親や先生は、看護師を勧めていて、私も手に職をつけたらうまくいくのではないかと思い、
看護科のある高校に進学しました。
しかし、明確な目標もなく、成績は落ちる一方でした。
「私はどうしてここにいるのかな…。」そのように思いながら、高校生活を送っていました。
友達もいましたが、表面的な付き合いでしかなく、悩みを打ち明けることもできず、
寂しい思いをしていました。
高三になっても看護師になりたいという具体的な思いがなく、
私は、浜松の短大に進学することになりました。
 
幸いなことにその短大は、キリスト教精神の短大で、
聖書や賛美歌を買い、キリスト教学の授業を受けていました。
学内には教会のキャンプのポスターが張ってあり、私はそのキャンプに参加することになりました。
そこで私は、神様の話を聞きました。
その中で、「人間には罪がある」ということを聞きました。
私の心は苦しくなり、色々な罪が思い出されました。
でも、イエス・キリストが罪を赦して下さることを知り、
私は、その中でイエス・キリストを信じ受け入れました。
私の心の中には、本当の喜びがやってきました。
私の生活は、ガラッと変わりました。
周りのみんなが、「顔が変わった」と言って下さるほどでした。



看護師の国家試験に合格し就職する時、今までの考えなら、
楽な所に就職したいと考えていたでしょう。
しかし、礼拝を第一にしたいと思った私は、日曜日がお休みの所を希望しました。
その結果、手術室に勤務することになりましたが、大変な仕事と思われる中でも、
神様の恵みをいつも覚えて、とても楽しく仕事をさせて頂きました。
結婚して子供が生まれ、実家の岡山に帰りました。
その時すでに、私の両親がバプテスマを受け、クリスチャンになっていました。
妹家族もクリスチャンホームになり、祖母も、母方の祖父もクリスチャンになりました。
様々なことを通して、神様が素晴らしい計画を与えて下さいました。
私が何かをしたわけではなく、神様が私を選んで祝福を与えて下さったことを思います。


神様は私たちに、素晴らしい希望を与えて下さいます。
人間は、死で終わりではありません。天国に希望があるのです。
神様は、私たちのために、素晴らしい計画を立てて下さっています。
そして、平安を与えて下さり、将来と希望を与えて下さるのです。
この神様にいつも目を向けて、歩む者とならせて頂きましょう。

(HCCライブチャーチ津山教会牧師 藤木さえ子先生のメッセージより)