| Profilo di HCC LIVE CHURCH...HCCライブチャーチ磐田FotoBlogElenchi | Guida |
|
26/08/2008 神様の選び ヨハネ 15:16あなたがたがわたしを選んだのではありません。
わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、
また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、
父があなたがたにお与えになるためです。
北京オリンピックが行われました。
オリンピックの選手に選ばれ、メダルを取ることができるのは、ごくわずかな人たちだけです。
それは、より強い人や、より速い人です。
しかし、たとえ弱くても足らなくても、イエス・キリストを信じる者には、
神様からの一方的な恵みによって、目には見えないけれど、神様からの金メダルが与えられるのです。
コリント人への手紙第一の1章26-27節を見ると、
神は、この世の愚かな者を選び、この世の弱い者を選び、
この世の取るに足らない者や見下されている者を選ばれたとあります。
神様の選びと、この世の選びとは違うのです。
私たちはつい、強いもの、かっこいいものなどに目が向きやすいものですが、
神様は、私たちの弱さの中で完全に働いて下さるお方なのです。
サムエルが主の声を聞く中で、エッサイの息子たちの中から王を選ぶ時、
主が選ばれたのは長男のエリアブや、二番目、三番目の息子ではなく、
一番末の、八番目の息子であるダビデでした。
羊の番をしている末息子のダビデを、神様は選び、油をそそがれたのです。(サムエル記Ⅰ16:1-12)
神様は、私たち一人ひとりを選んで下さり、救いを与えて下さいました。
この一方的な恵みによって救われたことは、素晴らしいことです。
今度は私たちが、上の御言葉に「行って実を結び」とあるように、
出かけて行って、多くの人々にイエス・キリストを宣べ伝えるという働きがあるのです。
ゲノアという一人の老人がいました。
彼は、オーストラリアのシドニーのジョージストリートで1日10人にイエス様のことを伝えるよう
神様に促され、40年間、ジョージストリートで伝道を続けてきました。
しかし、自分が伝道した人が救われたという話を聞くことはありませんでした。
ある日、一人の牧師が、ゲノア氏の家を訪ねました。
その牧師は、多くの人が、彼がジョージストリートで配ったトラクトがきっかけで救われたことを話されました。
実が見えないようであっても、長い期間の間に、彼を通して素晴らしい実が結ばれていたのです。
私たちも、神様に任命された者です。
主に目を向ける中で、イエス・キリストの素晴らしい恵みの中で前進する者とならせて頂きましょう。 20/08/2008 罪人を救う テモテⅠ 1:15「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、
まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。 私はその罪人のかしらです。 何が罪なのかということを、聖書は分かりやすく教えています。
一つは、神に対する罪です。
それは、神を神として認めず、自分で造った神の前に頭を下げたり、
自分の都合のよいように神様を利用したりする姿をいいます。
皆さんは、神様に感謝したことがありますか。
神に感謝することもせず、自分の言うことを聞いてくれなければ、
「こんなの神様じゃない」と横柄な態度をとってはいないでしょうか。
親を親と思わないことは罪であることと同じように、
神を神とも思わず、神に対して横柄な態度をとることは罪であると、聖書は教えています。
もう一つは、人に対する罪です。
私たちは、互いに愛しあい、赦しあい、親切にしあうべきです。
それを、自分の事だけを考えて生活し、自己中心やわがままな生き方をすることが、
罪であると教えているのです。
自分の言うことは聞いてもらいたいが、他人の言うことは聞きたくない…、
このような姿はないでしょうか。
愛のない心・言葉・態度…互いの人間関係の中で、そのようなことはないでしょうか。
これが罪であると、聖書は教えています。
イエス・キリストは、私たちに救いの道を与えて下さるために、この地上に来られました。
私たちの罪を全部背負って十字架に架かり、地獄の苦しみを経て三日目によみがえって下さいました。
このイエス・キリストを信じて恵みを受ける時、三つの大きな祝福を頂くことができるのです。
一つ目は、私たちのすべての罪が赦されることです。
私たちの身代わりとなって代価を払って下さったので、私たちの全部の罪が赦されたのです。
二つ目は、罪の奴隷から解放されることです。
悪いことをやめようと思ってもできない…これは、罪の奴隷になっている証拠です。
その鎖を断ち切って、罪の奴隷から解放して下さるのです。
肉の欲、わがまま、自己中心、このような鎖からも断ち切って、勝利を下さるのです。
三つ目は、最後の審判から救い出して下さることです。
私たちは、死後に神の前に出て、裁きを受けることが定まっています。
人のどんな真面目さも正しさも、神の前には通用しないのです。
イエス・キリストが代価を払って下さった、十字架の贖い以外には何も通用しないのです。
しかし、このイエス・キリストを信じて歩む時、私たちは救い出されるのです。
(HCCカンファレンス礼拝での、榊山清志先生のメッセージより) 12/08/2008 義と認められる ローマ 4:1-5何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、
その信仰が義とみなされるのです。 クリスチャンの皆さん。
神様の前に喜ばれるように、何とか真面目に頑張らなければ…
というような歩みをしている方は、いらっしゃらないでしょうか。
また、罪を犯さないようにと、いつも気にしながら生活している方は、
いらっしゃらないでしょうか。
そのような中に、本当の喜びはないのです。
クリスチャンこそ、本当の自由を味わい、神様の恵みを思い、
毎日毎日、感謝の生活をすることができるのです。
神様の愛と恵みと赦しに富んでいることが、一番素晴らしいことなのです。
聖書には、この世の考えや、私たちの常識と逆のことが書かれています。
「受けるよりも与える方が幸いである」(使徒20:35)
「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」(マルコ10:43)
「ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。」(マタイ5:11-12) …という具合です。
また、ルカ18:9-14には、パリサイ人と取税人の二人が、祈るために宮に上る場面があります。
パリサイ人は、正しく生きていた人、この世的には正しいと認められていた人でした。
しかし、神様は彼を正しいとは認めませんでした。
そのわけは、彼の心の中での祈りにありました。
彼は、自分を正しい者としていました。
そして、人間的には正しい歩みをしているとは見えない取税人を心の中で裁いていたのです。
しかし取税人は、ただ自分の胸をたたいて、
「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と言ったのです。
神様は、自分は罪人であることを認めた、この取税人を、正しいと認めたのです。
イエス・キリストは、私たちが正しく生きるために…ではなく、
私たちを赦して下さるために十字架に架かって下さったのです。
イエス・キリストは、私たちの不義(すなわち「至らない所」「罪」「過ち」など)に
あわれみをかけて下さる方なのです。
そして、もう私たちの罪を思い出さないと語っているのです(ヘブル8:12)。
ですから私たちは、失敗を恐れずに、神様から頂いた大きなビジョンを持って
前進していくことができるのです。
神様は、私たちを助けて下さるお方です。
自分の頑張りや真面目さの中で生きる者ではなく、神様とともに歩み、
神様の助けを頂き、豊かな恵みの中に生きる者とならせていただきましょう。 05/08/2008 神様を見いだす人 箴言 8:32-36なぜなら、わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、
主から恵みをいただくからだ。 わたしを見失う者は自分自身をそこない、 わたしを憎む者はみな、死を愛する。 一人のおばあさんが、大きな台風がやってきた時、家の中で一番大切なものを持っていこうと思い、
大きな風呂敷に仏壇を包んで担いでいきました。
台風が去って、おばあさんは一言言ったそうです。
「神様を助けることができてよかった。」と。
しかし同時に、何かがおかしいことにも気づいたのです。
「神様が私を助けるはずなのに、なぜ私が神様を助けるのか?」
おばあさんは、このような偶像が本当の神様ではないことに気がつきました。
彼女は教会に導かれ、洗礼を受けてクリスチャンとなったのです。
神様は、天も地も造られ、私たち一人ひとりを形づくって下さったお方です。
私たちはみな、神様の愛によって造られた、大切な存在であり、
神様の作品なのです。
神様は私たちに、正しい道を導いて下さり、希望を与えて下さるお方なのです。
この神様を見いだす人は、いのちを見いだすと聖書には書かれているのです。
ヨハネの福音書3章16節にあるように、イエス・キリストを信じる人は、
ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つことができるのです。
また、エペソ人への手紙1章11節にあるように、 イエス・キリストを信じる人は、天国を受け継ぐことができるのです。
ガラテヤ人への手紙3章29節には、「相続人」とも書かれています。
私たちは、すべてを持っている天のお父さんの相続人となることができるのです。
それに対し、神様を見失う者は、自分自身をそこなうとあります。
ルカの福音書12章13-21節にあるように、自分のために貯えても、
神様のいのちを頂かなかったら、むなしいだけなのです。
自分の力でいくら頑張ってみたところで、永遠のいのちを頂くことはできないのです。
私たちのこの地上での生活は、長くても100年くらいでしょう。
しかし、その期間に私たちは、永遠をどこで過ごすのかを決定しなければならないのです。
それは、神様を信じて天国に入る道を見いだすか、
神様を見失って地獄に行く道を通るかのどちらかです。
イエス・キリストは、私たちの罪、のろい、病、全てのために十字架に架かられました。
そして、私たちに永遠のいのちが与えられたのです。
私たち一人ひとりが神様を見いだし、神様の豊かな祝福を頂く者とならせて頂きましょう。 |
|
|