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31/08/2007 あなたの信じたとおりになるように マタイ8:5‐13それから、イエスは百人隊長に言われた。
「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」 すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。 私たちの言葉や、私たちの心は、時代や状況に応じて変わります。
また、人間の愛も変わることがあります。
しかし、神様のことばは決して変わることがないのです。
もし、家族の中で一番中心が神様の御言葉であるなら、
天国のような交わりを持つ家庭を築くことができるでしょう。
ここの箇所では、自分のしもべが病で苦しんでいるという百人隊長が出てきます。
自分の息子のようにかわいがっているしもべの病のことで、
彼はイエス様の元で懇願しました。
イエス様は、「行って、直してあげよう。」と言ったのですが、
それに対して百人隊長は、「ただ、おことばをいただかせてください。
そうすれば、私のしもべは直りますから。」と答えました。
百人隊長は、まず最初に神のことばをいただいたのです。
神様のことばに力があるのです。
この世界のすべては、神様のことばによって造られました。
また、ヨハネの福音書1章1節にも、「初めに、ことばがあった。」とあります。
神のことばには、山を動かすほどの力があるのです(マルコ11:23)。
そして、信じたらそのとおりになるのです。
アブラハムも、75歳という高齢でしたが、
最初に神様のことばがあって出かけていった時、
神様はすべてを祝福して下さいました。
私たちも生活の中で様々な状況を迎えるでしょうが、まず神のことばを求め、
イエス様のみことばを信じるなら、すべてが祝福されるのです。
神のことばによって、私たちは天国に入ることができるのです。
「さあ、行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」
この御言葉をいただいて、前進する者とならせていただきましょう。
21/08/2007 涙とともに種を蒔く者 詩篇126:1-6涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。
種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、 喜び叫びながら帰って来る。 私たちの生活の中では、苦しみや忍耐の時もあるでしょう。
失望に涙することもあるでしょう。
涙が出てしまうような状況であっても、イエス様はその涙を受け取って下さり、
涙を拭い取って下さるお方なのです。
自分の弱さ、足りなさの故の涙であってもよいのです。
イエス様ご自身も、色々な所で涙を流されました。
イエス様は、私たちのことを理解して下さり、前進を与えて下さるお方なのです。
涙とともに、イエス様に信頼し、御言葉をつかんで歩んでいくのです。
私たちには、神様の素晴らしい愛の中に人々を招き入れる責任があるのです。
神様の愛を、その人が受け入れるかどうかは、その人の問題です。
しかし、御言葉を届ける責任は、私たちのほうにあるのです。
人々が救われるために涙を流し、祈りをもって主の前に近づいていくのです。
そして、愛の種、福音の種を蒔いていくのです。
種は、蒔いたから実が成るのです。蒔かなければ、実は成りません。
種蒔きとは、「与えること」です。
私たちも、救いというものをタダで頂きました。
心から喜んで種を蒔き、その恵みを喜んでお返しする者とならせて頂きましょう。
もう一度、主に献身して、ここで素晴らしい礼拝が、
ミニストリーが始まることを信じて歩んでいきましょう。
主は、私たちの一つ一つの働きをすべて覚えておられるお方です。
献金も、奉仕も、神様にささげるものすべてを決して忘れないでいて下さいます。
そして、イエス様をお迎えした時に、すべてに可能性が見えてくるのです。
涙が出る状況の中でも、御言葉をつかんでイエス様とともに前進し、
喜びの祝福を頂く者とならせてもらいましょう。 16/08/2007 主の恵みが臨む ローマ5:18 こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと
同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを 与えられるのです。 ここには、一つの違反と一つの義の行為について書かれています。
最初の人間であったアダムとエバが罪を犯した時、人類は罪を持つようになってしまいました。 これが「一つの違反」です。
それから、「一つの義の行為」というのは、イエスキリストを通して私たちが義とされて、 いのちを与えられたということです。
私たちは、イエスキリストを通して義と認められ、いのちが与えられていること、
これは素晴らしいことであり、大きな特権であるのです。
私たちは、知らないと損することがたくさんあります。
かつてアメリカで、大きな油田が発見される前、その油田の持ち主は、
生活保護を受けなければならないほどの貧しい生活を送っていました。
しかし、油田があることを知ってから一瞬にして億万長者に変わりました。
実際には莫大な財産があったのにも関わらず、しばらくはそのことに
気づかないで過ごしていたのです。
イエスキリストの恵みに気づかない者になるのではなく、
どれほど素晴らしいものであるかを知り、喜び始めていくのです。
それぞれの環境の中で、色々な問題があるでしょう。
しかし、イエスキリストによって義と認められること、そしていのちを頂いている幸いには、
誰でもあずかる事ができるのです。国籍も、家系も、能力も、一切関係ないのです。
サッカーの試合などで日本代表が勝つと、
(実際に勝ったのはそこにいた選手たちなのですが)
日本人みんなが「勝った!」と宣言するでしょう。
これと同じように、イエスキリストの一人の義によって、
「私も義と認められている。いのちが与えられている。」という認識を持っていくのです。
私たちは、信仰によって、恵みによって豊かにされていく、
この素晴らしい特権にあずかる事ができるのです。 10/08/2007 きよい者が見るもの 詩篇51:10-13神よ。私にきよい心を造り、
ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。 川の水は、濁りがなく、きよければ、遠くまで見えます。
しかし、濁りがあると、遠くが見えなくなってしまいます。
それと同じように、もし私たちの心が濁っていれば、
神様の素晴らしさが見えなくなってしまうのです。
イエス様とともに歩まなかったら、いくらクリスチャン生活をしていても、
きよい生活をすることはできないのです。
自分が罪人であることを自覚し、いつも神様の前に歩むこと…
これこそが、きよい生活なのです。
「罪を犯してはいけない」と頑張る生活ではなく、
聖霊を頂いたのなら、自分から罪から離れてていくのです。
ダビデも、罪人の一人でした。
罪を犯した時、神の御前に出た時の祈りが、
この51編だったのです。
罪を犯した時は、喜びがなくなります。
罪を犯した時は、神様の前に出るのです。
罪を犯した時に、動物の血をささげていた旧約の時代とは違い、
今は、イエス様の血潮のよって、私たちの罪は赦されたのです。
そして、この救いの喜びは、いつまでもかわらないのです。
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