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27/07/2009

キリストの福音にふさわしい生活  ピリピ1:27、 ローマ6章 

 
 
ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。
 
 
 
クリスチャンとは、どういう者なのでしょう。
クリスチャンとは、神を知っている者、神を信じる者、キリストに似た者、小さなキリストなのです。
そして、イエス・キリストを信じる信仰によって罪から解放された者なのです。
悔い改めるだけでは不充分であり、神様とともに新しい歩みをすることが信仰生活であると
聖書は教えているのです。(ローマ6:4)
 
クリスチャンになる前、様々な罪の中を歩んでいたことは、もう解放されたものなのです。
クリスチャンになってからは、イエス・キリストが生活のすべての主人となって頂くのです。
私たちはそれに寄り添って、キリストの福音にふさわしい生活をさせて頂くのです。
もう、以前のような(罪の中を歩んでいた)生活をしてはならないのです。
私たちは、罪に死んだ者です。
罪には反応しない…これが、クリスチャンとしての歩みです。
 
しかし、私たちには、肉というものがあり、欲というものがあるのです。
それゆえに、いとも簡単に、以前の歩みに戻ってしまうのです。
イエス・キリストが私たちの罪を負って死んで下さったことによって、
「原罪」から解放されるのです。
一方、クリスチャンが罪を犯してしまうことは、神に対する「犯罪」なのです。
クリスチャンが神の前に犯してしまった罪に対して、どのようにすればよいのでしょうか・・・。
このことに対しても、悔い改めさせて頂くのです。
そして、また新しい歩みをさせて頂くのです。
 
 
神様の恵みの下にあるのだから、罪を犯してもよいということは決してありません。(ローマ6:15)
イエス・キリストを知っている故に、簡単に自我や罪の奴隷になってはいけないのです。
 
いつでも聖められて、神様に使って頂ける「聖い者」とならせて頂きましょう。
家庭の食器でも、いつでもよく使う、使いやすい食器があるでしょう。
それは、よく洗われた、使いやすいものではないでしょうか。
それと同じように、私たちも神様にとって「使いやすい者」とならせて頂くのです。
 
そして、クリスチャン生活を楽しんでいくのです。
そして、クリスチャンこそ大きなビジョンを、大きな夢をもって歩んでいくのです。
そのビジョンや夢を他の人に語った時、信仰の告白に対して、
主が責任を持って夢を実現させて下さるのです。
神様に目を向ける中で、大きな夢を持って、前に向かうことができるのです。
そして、毎日の生活の中で、大胆にイエス・キリストを証しする者とならせて頂きましょう。
22/07/2009

福音について              ローマ 1:16

 
 
私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、
信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
 
 
 
福音を通して、神はすばらしいことを今日までなされてきました。
福音によって人々の心が変わり、その人の人生が変わり、新しい出発を与え、
心の中に大きな喜びが与えられるのです。
福音には力があります。
ですから今日、数え切れないほどの多くの人々が、この福音を伝えようとしておられるのです。
 
この「福音」というものは、「宗教」とは違うのです。
宗教は、人間の頭の中で、推理の結果生まれたものです。
ですから、形や形式というものが、その中で作られてしまいます。
それに対して、福音というものは、神からのそのままのものですから、力があるのです。
クリスチャン生活の中に「いのち」があるのは、その故です。
宗教は、人間によって始められたものですが、福音は、神によって始められたものなのです。
神の、私たちに対する恵み、私たちに対するメッセージなのです。
イエス・キリストも神によって来られました。大きな違いが、そこにはあるのです。



最初の人類であったアダムとエバは、神によってつくられました。
神様と交わることができるように、神の姿に似せて造られました。
しかし、このアダムとエバに罪が入りました。その時から、神様が見えなくなり、
人類はそのような罪の中を歩む者となってしまいました。
そうした中で神様は、人類がもう一度神様と交わることができるように、
罪のないお方であるイエス・キリストをこの地上に送って下さったのです。
イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かって下さり、
罪の代価をみな払って、よみがえって下さったのです。
このイエス・キリストを信じる信仰によって、私たちはもう一度、
神様と交わることができるようになったのです。
アダムとエバの時から今日まで、神様は私たちに声をかけて下さっています。
神様が私たちのために手を差し伸べておられる…これこそが福音です。


多くの宗教というものは、私たちが神のために何かをしなければならないという具合ですが、
福音は、罪の故に愚かになっている私たちに対して、神様が手を差し伸べておられる、
その招きの声なのです。
そして多くの宗教で見られる「外面的な改善」よりも、
内面的な変化をつくり出して下さるのが、福音です。
どんな劣等感に悩んでいる人も、悪習慣に悩んでいる人も、
そこから解放させて下さる力をお与えになるのです。
神からの私たちに対する恵みが、福音という形で、私たちに提供されているのです。


(HCCカンファレンス礼拝での、榊山清志先生のメッセージより。)

13/07/2009

神様を深く知る              ホセア 6:3

 
 
私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。
主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、
後の雨のように、地を潤される。

 
 
神様を知るということ、神様を信じて歩むということは、なんと素晴らしいことでしょうか。
「私たちは、知ろう。」…とありますが、何を知るのかというと、
主というお方を知ることを切に追い求めようと、ここでは書かれているのです。
 
世の中の人は、神様を知るということを抜きにして、様々な富や知識などを追い求めようとします。
しかし、神様を知らない歩みというのは、自分の力でがんばっていかなければならない、
むなしい歩みなのです。
 
解決は、イエス・キリストにあります。
答えは、イエス・キリストにあるのです。
イエス・キリストこそが、愛を与え、自由を与え、そして力を与えて下さるお方なのです。
私たちにとって大切なのは、主と深く交わることです。
主を深く知れば知るほど、私たちは、神様からの大きな愛をもって、
信頼して歩んでいくことができるのです。
 
聖書の世界は、物事がはっきりしているのです。
天国は天国であり、地獄は地獄です。
その中間というものは、ありません。
私たちは、そのことをしっかりと知る必要があるのです。
そして、神様は大きなお方、偉大なお方です。
私たちの祈る祈りに、はっきりと答えて下さるお方です。
 
神様は、「暁の光のように、確かに現われ」て下さり、そして、
「大雨のように、私たちのところに来」て下さる、そのようなお方なのです。
来たか来ないか、分からないようなお方ではありません。
はっきりと分かるように、私たちのところに来て下さり、答えを下さるお方なのです。
 
深く、深く、神様の計画を知る者とならせて頂きましょう。
そのためにも、よく祈る者とならせて頂きましょう。
教会のためにも、周りの人々のためにも、祈る者とならせて頂きましょう。
 
そして、神様を知らない人たちに、神様のことを伝えていくのです。
天国について伝えるのと同時に、地獄のことについても伝えていくのです。
それは、神が私たちを愛し、罪から救い出して、永遠のいのちを与えるために、
御子イエス・キリストを遣わされた事実をお伝えするためです。
神様が、どれほど素晴らしいお方であるか、そして愛なるお方であるのかを、
よく知る者とならせて頂き、その愛を、人々に伝えさせて頂きましょう。
07/07/2009

今は恵みの時、今は救いの日。      Ⅱコリ 6:1-2

 
 
神の恵みをむだに受けないようにしてください。
神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、
救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

 
 
恵みをいただくのにも、人々が救われるのにも、「今、この時。」というものがあります。
盲人バルテマイにとっても、そのような状況がありました。(マルコ10:46-52)
彼は、イエス様が自分の近くにいることを知ると、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」
と叫び続けました。
周りの人々にたしなめられても、なおも「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び続けました。
イエス様は盲人のところに来て、「何をしてほしいのか。」とたずねました。
彼は、「先生。目が見えるようになることです。」と答えました。
イエス様は彼の信仰に答え、彼はすぐに目が見えるようになりました。
盲人バルテマイにとっては、このイエス様が来られた時が、叫ぶ時であり、
求める時であったのです。
 
ノアは、神の声を聞いて、箱舟を作り始めました。(創世記6-7章)
ノアは箱舟を作りながら「洪水がやってくるから、箱舟に入りましょう。」と、
周りの人々に言い続けました。
しかし、彼の言うことを信じる人は誰もいませんでした。
結局、箱舟には、ノアの家族8人と、すべての動物の雄と雌、それぞれ2匹ずつが入りました。
神はその後、箱舟の戸を閉じられました。
そして、40日40夜も大洪水が起こり、すべてのものは水で滅ぼされました。

 

今は恵みの時、救いの時です。しかし、やがてイエス様が帰ってこられ、
箱舟の戸が閉じられたように、救いの戸が閉じられる時が来ます。
それがいつであるのかは、誰もわかりません。
まだ大丈夫と思わないで、いつイエス様が返ってきてもよいように、
いつも、信仰の目を覚まして祈っている必要があるのです。

「流しそうめん」をつかめずに、流れていくのをじっと見つめているような歩みではなく、
「私も恵みをいただきます!」と大胆な信仰をもって、求めていくのです。
パウロは、牢屋に入れられたことが、人々に福音を届けることにつながっていきました。
私たちも、日々の生活の中でマイナスに見える出来事があっても、
そのことを通して恵みをもらっていくのです。

それとともに、主の前に低くならせて頂くのです。
いつも神様に従い、自我や自分の考え、常識、世間体などを捨てていくのです。
いつも神様とともに歩み、神様にとって「使いやすい器」とならせて頂くのです。
いつも主との応答をさせていただき、どんな時も恵みを逃さないで歩む者とならせて頂きましょう。

01/07/2009

強められなさい          エペソ 6:10

 
 
終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
 
 
 
主は、力のあるお方です。
イエス様がこの地上を歩まれた時、様々な奇跡が、また癒しがなされたことが、聖書には書かれています。
イエス様の行く所どこにでも人々があふれ、多くの人々に大きな慰めや励ましが与えられました。
このイエス・キリストの大能の力によって強められなさいと聖書は教えています。
 
ルカ10:19には、こうあります。
「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、
敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。
だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」
ですから私たちは、様々な中にあって前進することができ、求めることができ、祈ることができ、
大いなる挑戦をすることができるのです。
私たちには、力はありません。
しかし、主が私たちに力を注いで下さるので、できるのです。
 
私たちが小さな働きをしようとするのなら、主はそのための力を与えて下さいます。
また、私たちが大きな挑戦をするのなら、主はそれに対しても
力を注いで下さることがおできになるのです。
私たちが神のために大いなる挑戦をしようとする時、神は、それに間に合う力をお与えになるのです。
それに必要な助けも、すべて与えられるのです。
一般的なレベルや自分のレベルで物事を考えるのではなく、聖書のレベルで物事を考えていくのです。
聖書のレベルは、私たちの考えもつかないほど大きく、
一般のレベルや自分のレベルとはケタが違うのです。
それはもう、目を見張るほどのものです。
主がすべて力をお与えになって下さるので、聖書のレベルで物事を考えなかったら、損なのです。
聖書のレベルで物事をとらえ、恵みをもらっていく者とならせて頂きましょう。
 
また、バランスを持つことも大切です。
信仰をもって強められるだけではなく、へりくだることが大切です。
求めたら、主はそれに対して力を与えて下さいますが、
強められたら、力のない人たちの弱さを担ってあげることが必要なのです。
ともに励まし、支え、祈ってあげる必要があるのです。
イエス様が、まずその見本を示してくれました。
イエス様は強い者として、罪のない者としてこの地上に来られましたが、
弱い者たちの弱さを担われました。
イエス様は、バランスを持っておられたのです。
私たちも、自分に与えられたものを自分のためだけに使うのではなく、分かち合っていくのです。
「自分を喜ばせるべきではありません。」と聖書にはあります。
お金が与えられたら、その中でささげていくのです。
良いことを学んだ時も、自分のものだけにするのではなく、分かち合っていくのです。
与えることを知っている人、それこそが本当に豊かな人なのです。
(HCCカンファレンス礼拝での榊山清志先生のメッセージより)