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16/06/2009 ただ恵みによるのです エペソ 2:3-9あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 私たちは、罪のゆえに滅びなければならない者でした。
しかし神様は、たった一人の御子であるイエス・キリストをこの地上に送って下さいました。
イエス・キリストは、私たちの罪を負って、十字架に架かって死んで下さいました。
そして、三日目によみがえられました。
イエス・キリストは、今もともにいて下さるお方です。
私たちは、イエス・キリストを信じるだけで、罪から救われるのです。
だから、今までの過去や、罪に縛られなくてもよいのです。
この救いの恵みから漏れている人は、一人もいないのです。
私たちが、ただ信じるだけで救われるためには、
イエス・キリストはどれほど大きな犠牲を払ったことでしょうか。
イエス・キリストは、背中に39回ムチを打たれました。
私たちが神様に背を向けてしまうその背中に、ムチを打たれたのです。
また、私たちが悪い事を考えてしまうその頭に、いばらの冠をかぶらされました。
両手両足を釘で打たれ、馬鹿にされ、罵られ、傷を負い、いのちをも捨てて下さったのです。
私たちのために、こんなにも犠牲を払って下さったお方。それが、イエス・キリストです。
この犠牲を忘れてはならないのです。
イエス・キリストとともに歩む時、私たちがどんなに弱くても、汚くても、
聖めて下さり、恵みで満たして下さるお方なのです。
ルカの福音書18章9-14節には、パリサイ人と取税人の二人の祈りについて書かれています。
取税人は、みんなに嫌われていました。
そのような取税人を見て、パリサイ人は、自分の正しさを主張し、
この取税人のようでないことを感謝しますと祈りの中で言ったのです。
しかし取税人は、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて、
「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と祈ったのです。
イエス・キリストは、自分の正しさを主張したパリサイ人ではなく、
低くなった取税人を、正しいと受け入れて下さったのです。
自分の頑張りを見せる者になってはいないでしょうか。
そこには、恵みはありません。
神の前に自らを低くし、心をやわらかくする人に、主は恵みを与えて下さいます。
生活の中で問題や困難に直面する時、その問題や困難を取り除くことに意識を働かせるのではなく、
そのことを通して低くなり、そのことを通しても恵みをもらいますと信仰を働かせていくのです。
すべてを感謝して受け入れる中で、主は、豊かな恵みで満たして下さるのです。
(榊山澄子先生のメッセージより) 09/06/2009 福音を宣べ伝えなさい マルコ 16:15-20そこで彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。
主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。
「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」
これは、イエス様が言い残された宣教命令でした。
全世界というのは、私たちが遣わされている職場、学校、近所づきあい、様々な所を指します。
それぞれの場所で福音を宣べ伝えることを、私たちはイエス様から託されているのです。
福音とは、何でしょうか。
福音とは、Good News、すなわち『良い知らせ』という意味です。
イエス・キリストがあなたの罪のために十字架に架かって死んで下さったこと。
そして、三日目によみがえって下さったこと。
イエス・キリストを信じたら、すべての罪が赦されること。
…このことを伝えるのが、福音です。
皆さんの口で、皆さんの隣にいる人に、福音を伝えていくのです。
そして、この福音を信じてバプテスマを受ける者は、救われるのです。
救いは、イエス様の中にあります。
イエス様の名前に力があるのです。
悪霊を追い出す力、すなわち、悪魔を制する力があるのです。
新しいことば、すなわち、賛美が与えられるのです。
また、様々な癒しが与えられます。
私たちが頑張って癒すのではありません。イエス様の名によって、癒されるのです。
福音は、神の力です。この福音からもれている人は、一人もいないのです。
私たちで、この福音を留めてしまう者であってはならないのです。
私たちは、生きている間の、この世の生活には関心を持ちやすいのですが、
この世を去った後のことに関しても、よく祈る必要があるのです。
この世を去った後も、永遠のいのちにつながっていくことを伝えさせて頂くのです。
磐田の教会は、19周年を迎えました。
19年前、神様の愛の迫りを感じる中で、みことばによって押し出され、
この磐田での宣教が始まりました。
最初の頃は、力を入れれば入れるほど上手くいかないということを、よく体験しました。
自分の力で、頑張って歩んでいくのがクリスチャン生活ではありません。
様々な砕かれる中で、自分の力は何もないことを認め、
そして、神様に目を向け、神様の助けを頂く中で、神様が下さった恵みの中で楽しませて頂くのです。
19年の間に、広い会堂が与えられ、また、様々な機器などが与えられてきました。
しかし、これらのものは、付属物に過ぎないのです。
神様が与えて下さった一番素晴らしい恵みは、私たちが救われたこと、罪人が救われたことです。
20周年に向けて、さらに福音を宣べ伝える者とならせて頂きましょう。
神様からの愛の励ましを受けて、愛の迫りを受けて、福音を宣べ伝える者とならせて頂くのです。
01/06/2009 福音以外は寛容 ローマ 14:1あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。
その意見をさばいてはいけません。 色んな弱さを持つ人がいます。
心の中に弱さをおぼえる人。色々な働きの中で弱さをおぼえる人。
誘惑や悪習慣にすぐ負けて、流されてしまう人。
…聖書は、このような弱い人を受け入れなさい。さばいてはいけませんとあります。
もし受け入れていないのなら、あなたにも同じ「弱さ」があるのです。
生活の中で、また、皆さんの職場や学校などで、福音が届けられているでしょうか。
教会の大切な働きは、「福音」というものに置かれています。
イエス・キリストが私たちのために十字架に架かって下さって、苦しみを受けて下さったこと。
そして三日目に、死の力を打ち破ってよみがえって下さったこと。
そして、新しいいのちが与えられること。
…この福音を届けるのです。
これは、私たちがどうしてもしなければならない、大切なことです。
この「福音を届ける」ということはどうしても必要ですが、それ以外のことについては寛容さが必要です。
教会には不特定多数の人が来ます。
信仰生活の長い人も、救われたばかりの人もいます。
信仰の強い人も、弱い人もやって来ます。
互いに助け合い、支え合い、祈り合っていくことが必要です。
ここの箇所で出てくるローマの教会は、ユダヤ人と異邦人によって構成された教会でした。
ユダヤ人たちは「汚れたものは食べない」という教えを持っていました。
反対に異邦人たちは、そんなことは何もお構いなく食べていました。
ユダヤ人と異邦人とで食べ物のことでさばきあっている状況を、パウロが見た時に、
「本質的でないことについては、寛容さが必要です。」とローマの教会に対して訴えたのです。
イエス様は、いつも罪人たちと一緒に食事をしたと書かれています。
そのように、教会も寛容さが必要なのです。
パリサイ人には、寛容さがありませんでした。
彼らは、罪人たちと一緒に食事をしているイエス様を非難しました。
そのような彼らに対しイエス様は、「医者を必要とするのは、丈夫な者ではなく、病人です。
わたしは、正しい人を招くために来たのではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」
と言われたのです。
今日、皆さんは、「イエス様寄りの人」ですか。
罪人たちを受け入れて、立ち直ることができるように助ける側の人ですか。
それとも、「パリサイ人寄りの人」ですか。
非難して、冷たい目で見る人ですか。
私たちは、相手を、自分の基準で見ないで、寛容な心を持って受け入れてあげる必要があるのです。
どうしても必要なのは、福音を届けるということです。
(HCCカンファレンス礼拝での榊山清志先生のメッセージより) |
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