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29/06/2007

神との平和をもって    ローマ5:1

 
 
ですから、信仰によって義と認められた私たちは、
私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
 
 
 
旧約の時代、神様の前に出るということは大変なことでした。
年に一度だけ、過越しの祭といって、子羊の血をもって行われたのですが、
それも、大祭司が、腰にロープを結び、鈴を持って至聖所という所に入ることで、
神様にお会いすることができたのです。
 
なぜ、ロープや鈴が必要だったのかというと、
もし至聖所に入った時に罪を持っていたら、大祭司は死んでしまったからなのです。
生きていたら鈴の音が聞こえます。
外にいる人々は、至聖所の中にいる大祭司の生死を鈴の音の有無で判断し、
もし死んでいるのであれば、ロープを引っ張って大祭司を出さなければならないのです。
神様にお会いするということが、そのくらい大変な、命がけの出来事であったのです。
 
しかし今は、イエス様が私たちの罪のために十字架に架かって下さったので、
その血潮の故に、私たちは大胆に神様の前に出ることができるのです。
ヘブル4:16には、「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、
おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
とありますが、このようにイエス様の恵みにより神様との平和をもち、
大胆に神の前に出ることができるのは、すごいことなのです。
 
それと同時に私たちは、信仰によって歩むことができるという恵みにあずかっているのです。
生活の中で信仰を働かせることにより、神様の恵みを、そして働きを
その中で一杯にすることができるのです。
信仰が観念的なものになって流されてしまう者にならないで、
「私も同じ恵みを持つことができる!」と実際に信仰を働かせて、
前進する者とならせて頂きましょう。
15/06/2007

どんなときにも、神に信頼せよ   詩篇62:8

 
 
民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。
あなたがたの心を、神の御前に注ぎ出せ。
神は、われらの避け所である。
 
 
私たちには、逃げ込む所、隠れることができる所があります。
それは、まことの神、イエス・キリストの所です。
私たちは、様々な出来事を通して、失望や落胆、病や痛みなどを
経験することでしょう。
聖書のこの箇所では、「どんなときにも、神に信頼せよ。」と書かれています。
片時も忘れないで、神様に信頼する中に、神様からの大きな恵みが注がれるのです。
 
ある牧師の娘は、事故で片足を切断しなければならない状況を迎えました。
父親であったその牧師はとても悲しみましたが、
娘は来てくれた父に感謝の言葉を語りました。
父が、「お前はこれから、どんな姿で歩かなければならないのか分からないのに、
なぜ、そんなに平安なのか。」と不思議がって聞くと、娘は、こう答えました。
「どんな姿で歩くかよりも、誰とともに歩くかの方が大事だよ。
私には、いつもイエス様がともにいるから。」
 
イエス様とともに歩むこと、これこそが平安な道なのです。
絶望に見える中でも、希望の光を注ぎ込んで下さるのです。
イエス・キリストを信じ、受け入れ、ともに歩むということは、
宗教を変えることではなく、永遠を変えることなのです。
 
 
私たちの力では、永遠を変えることはできないのです。
今、どのような御言葉の約束に立っているでしょうか。
御言葉に信頼して、拠り頼んで歩んでいくのなら、
素晴らしいことが起こるのです。
私たちの家族も、人生も、神様が油を注ぐように満たして下さるのです。
 
 
神様には、何でも言うことができるのです。
また神様は、私たちを退けないで、何でも聞いて下さるお方なのです。
そして、最善の道に導いて下さるお方なのです。
08/06/2007

イエス様の無条件の愛     ルカ10:30-37

 
 
ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、
彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、
自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。
『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
 
 
ある人が、エルサレムからエリコヘ下る道で、強盗に襲われました。
その人は着物をはぎ取られ、半殺しにされました。
当時の霊的な指導者である「祭司」は、半殺しに会ったその人を一度見て、
反対側を通り過ぎてしまいました。
また、多くの人の模範となる霊的指導者であった「レビ人」も、
反対側を通り過ぎてしまいました。
 
しかし、サマリヤ人は、反対側を通り過ぎることはせず、
かわいそうに思い、最後の最後まで彼を気遣ったのです。
彼は外国人であり、当時、付き合いをしていなかったのですが、
そのサマリヤ人が、彼の隣人となったのです。これこそが、イエス様のお姿なのです。
 
私たちは、様々な困難・試練などを体験します。
ひどく傷つけられることも、あるでしょう。
しかし、その中で、イエス様は私たちの一番近くにおられ、
私たちを気遣って下さるお方です。
イエス様は、決して私たちを独りぼっちにはしません。
罪や痛みを引き受け、十字架に架かって下さったお方です。
イエス様は、全部を赦して下さったお方です。
永遠に保証して下さり、贖いをなして下さったお方です。
 
私たちには、そのような愛はありません。
しかし、イエス様の愛によって、私たちは、その人に近づき、
介抱してあげることができるのです。
その人のために祈ってあげること、声をかけてあげること、
そして隣人になることができるのです。
イエス様の愛で満たして頂き、私たちも、人々に愛をあらわすものとならせて頂きましょう。