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25/05/2009 霊を燃え立たせなさい テモテⅡ 1:3-8それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもって
あなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。 テモテは、信仰深い家庭に育ちました。
祖母のロイスも、母のユニケも、純粋な信仰を持っていました。
同じ信仰をもっていたテモテは、パウロが迫害されていた姿を見て、
自分も献身したいという、燃える思いを持ったのです。
テモテは、主のために、そして人々のために涙を流す者でした(4節)。
しかし、しばらくするうちに、テモテの燃える思いはなくなってしまったのです。
そのようなテモテに対しパウロは、「私はあなたに注意したいのです。」と語られました。
テモテが燃えなくなってしまい、現実ばかり見ている姿は、
パウロにとって歯がゆいものでした。
再び霊を燃え立たせてほしい…それが、パウロがテモテに本当に言いたかったことだったのです。
皆さんはいかがでしょうか。
…クリスチャンになって、最初は、単純な信仰をもって、喜んで奉仕し、喜んで賛美をささげていた。
でも最近、色々な問題が大きくなって、奉仕も重荷になって、喜びもなくなってきた。…
そのようなことはないでしょうか。
単純な、純粋な信仰を、持ち続けているでしょうか。
問題ばかりを見ていると、問題が大きくなり、神様が小さく見えてしまいます。
しかし、様々な問題の中でも、神様だけを見ていくと、問題が小さくなり、
神様の偉大さを体験することができるのです。
7節にあるように、神様が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、
力と愛と慎みとの霊です。
だから、「神様にあっては、どんなことでもできます!」と福音のために
積極的に挑戦させて頂くのです。
恥をかいても、どんなことがあっても、主により頼む中で、主が全部責任を持って下さるのです。
クリスチャンこそ、勝利を頂くことができます。
世の中の人々が驚くような恵みの中を歩んでいくことができるのです。
問題や困難が起きた時、それが無くなるように、
マイナスがゼロになるような祈りをしていないでしょうか。
神様は、問題をなくすお方ではなくて、問題を通して恵みをお与えになるお方なのです。
病気になったとしても、困難の中を歩んだとしても、そのことを通して
主は責任を持って導いて下さいます。
神様のことばにより頼んで歩む中には、決して失望させられることがないのです。
イエス様に目を向けていく中で、イエス様は抱きかかえて下さり、恵みの中に導いて下さいます。
今日、神様の助けを頂いていきましたか。
それとも、自分で頑張って、やろうとしていましたか。
純粋な信仰、単純な信仰を持つ中で、聖霊によって燃やされる者とならせて頂きましょう。 19/05/2009 一致していく 使徒 2:44-47信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有していた。
そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、
喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。
主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
これは、初代教会におこされた、素晴らしい神様の奇跡です。
信者たちは、皆お互いに愛し合い、支えあっていったのです。
色々なものを共有し、一緒に食事をし、愛の実践をしていく中で、
「教会の人々は素晴らしいな」と周りの人々も好意を持って下さったのです。
このように、教会が一致して愛の実践がなされていった時に、リバイバルが起こされたのです。
まずは、一人ひとりの心の土台を、「神様を愛する」という所に置くのです。
その中で、神様が御霊の一致を与えて下さるのです。
第一ペテロ4章10節には、「その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」とあります。
自分に与えられた賜物を、神様のために使っていくのです。
そのことを通して、神様はご自身の栄光をあらわして下さいます。
そして、周りの人々も、神様の素晴らしさを味わうことができるのです。
自分が損をしないようにと自分を守っていくのではなく、
神の国を第一として歩む中で、かえって豊かにされていくのです。
一人ひとり、願っていること、夢、立場などは、それぞれ違うでしょう。
でも、みんなが好き勝手に動いてしまっては、物事は進みません。
自分のやり方に従うのではなく、神様のやり方に、すなわち御言葉に従い、一致していくのです。
その中で私たちは、奇跡を体験することができるのです。
何か自分で頑張って、突っ走ってしまうことは、かえって周りをダメにしてしまいます。
カッコつけて良い働きをすることを、神様は喜ばれるわけではありません。
何かできるから、神様は愛して下さるというわけではありません。
神様は、あなたの存在そのものを喜んで下さるお方なのです。
第二歴代誌16章9節にはこうあります。
「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に
御力をあらわしてくださるのです。」
今、何か望んでいることはあるでしょうか。
その望んでいる事がらを、すべて神様に求めていくのです。
「これを下さい」と信仰を働かせ、信仰の目を持って前進していくのです。
神様に歩調を合わせて前進していく中で、神様は責任をもって、道を開いて下さるのです。
神様を愛して、一致していく中で、神様は、私たちの想像以上の素晴らしいものを与えて下さるのです。 (渡辺宏予伝道師のメッセージより) 12/05/2009 りっぱな信仰 マタイ 15:21-28そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。
「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」
すると、彼女の娘はその時から直った。
聖書のこの箇所に出てきたのは、りっぱな信仰を持ったお母さんでした。
このカナンの女性は、どうしても娘を助けてほしいと叫び続けたのです。
しかし、その時イエス様は、何もお答えにならなかったのです。
イエス様は、無意味なことをなされる方ではありません。
イエス様が何もお答えにならない、黙っておられる、祈りが答えられない…
その中に意味があり、神様の大きな計画があることをクリスチャンは知らなければならないのです。
イエス様は一言もお答えにならない状況でしたが、彼女はなおも叫びながら、あとについて来たのです。
祈りの答えが見つからないからといって、「もういいや」と自我を出して、
諦める者になってはいないでしょうか。
この女性は、決して諦めることはありませんでした。
そのような彼女にイエス様は、
「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」とお答えになりました。
つまり、「あなたには関係ない」とこの女性に言ったのです。
そのような中で、彼女の祈りが変わってきました。
今までは、娘を何とかして下さいという祈りでしたが、ここで彼女は、
「主よ。私をお助け下さい。」と言うようになったのです。
自分自身をさらけ出す祈りに変えられていったのです。
そしてイエス様は彼女に、「子供たちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」
と言われたのです。
イエス様は、彼女を「小犬」呼ばわりしました。
それに対して、彼女はどのように反応されたでしょうか。
彼女は、小犬呼ばわりされても、なおも低くなり、心をやわらかくしていきました。
「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
と言われたのです。
主人の食卓から落ちるパンくずを頂くことのできる犬は、野良犬ではありません。
飼い主がいる犬なのです。
彼女の心は、「小犬でもいいです。神様の恵みのおこぼれでもいいですから、祈りに答えて下さい。」
というものだったのです。
イエス様は、私たち一人ひとりに、素晴らしい計画を与えて下さいます。
イエス様に近づき、どこまでも食い下がる人に、イエス様は素晴らしい恵みを与えて下さいます。
クリスチャン生活は、立派な人になるのが目標ではありません。
主にどこまでもよりすがり、自分がなくなって、神様だけになっていくことです。
「神様だけ」になっていく時、神様がすべて責任を持って下さいます。
この箇所で出てきたカナンの女性の「りっぱな信仰」。
これこそが、私たちが模範とさせて頂く姿勢なのです。
07/05/2009 愛の貸し借り ローマ 13:8だれに対しても、何の借りもあってはいけません。
ただし、互いに愛し合うことについては別です。 他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。 自分が苦しかった時、誰かが愛の手を差し伸べてくれたことがありましたか。
また反対に、誰かが困っていた時、愛の手を差し伸べたことがありましたか。
聖書は私たちに、愛することの大切さを教えています。
今日、皆さんのすべての生活は、愛から出発されているでしょうか。
愛するということが、どれくらい豊かになされているでしょうか。
かつて有名な、アウグス・チヌスという神の器が出ました。
彼は、「心に愛があふれるために、あなたはまず、神様だけを愛して下さい。」と言われました。
まず神様だけを愛する中で、私たちは御言葉に従い、神様との交わりが始まるのです。
そして、心に愛があふれてくるので、人々を愛するようになり、
愛を与える者となることができるのです。
イエス様が復活された時、イエス様はペテロに、
「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」と言われました。
この時、イエス様はペテロに、愛の確認をされました。
ペテロは、「主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存知です。」と言われました。
ペテロの愛の確認をされた後、イエス様は、「わたしの羊を飼いなさい。」と言われました。
その応答を、三回繰り返されました。
私たちのすべては、愛があふれるために、まず主を愛することから始めていくのです。
この世には、二通りの人がいます。
愛の貸し借りをつくって生活している人。
もう一つは、愛を受けもしないし与えもしない、自分の中だけで生活している人です。
あなたは、どちらの側にいますか。
愛を受けもしないし与えもしないという姿は、とても高慢な姿です。
私たちは、あまり人の世話にならないように、迷惑をかけないようにと考えがちです。
ヨハネの福音書には、イエス様がペテロの足を洗われた姿が出てきます。
ペテロはイエス様に、「決して私の足を洗わないで下さい。」と言われました。
この時のペテロの気持ちは、「申し訳ないから…」というものだったでしょう。
しかしそのようなペテロにイエス様は、「もしわたしが洗わなければ、わたしとあなたは、
何の関係もありません。」と言われたのです。
私たちが、主との関係においても、人との関係においても、愛を受けなければ、
何の関係もないと言っているのです。
反対に、私たちが愛を受け、愛を与えるということは、大切なことだと言っているのです。
私たちは、イエス様の愛を沢山受ける必要があるのです。
イエス様の愛を沢山受けた人が、イエス様の愛を沢山与え、イエス様の愛を伝える人となるのです。
(HCCカンファレンス礼拝での榊山清志先生のメッセージより) |
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