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21/05/2008 希望 テモテⅠ1:1、エレミヤ29:11私たちの救い主なる神と私たちの望みなるキリスト・イエス。
私はあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ。― それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
私たちは、生活していく中で様々な困難や問題にぶつかります。
八方ふさがりのような状況の中で、希望が失望に終わってしまう人が、案外大勢いるのです。
あなたの希望は、失望に終わっていないでしょうか。
どんな苦しみや困難の中であっても、希望を持つ中で、私たちは力を得、前進できるのです。
ドイツの神学者、ユルゲン・モルトマン氏は、自分の神学を「希望の神学」と呼んでいました。
第二次世界大戦の中、17歳の時彼は戦争に行き、捕虜となってしまいました。
そればかりでなく、自分の故郷が爆撃を受け、家族もみな亡くなってしまったという知らせを聞いたのです。
彼はまさに、生きていく望みを全部失ってしまいました。
自殺をも考えた彼でしたが、一人の牧師から聖書をもらい、聖書を読む中で変えられていったのです。
イエス・キリストは、人々を癒し、様々な良い業をなされましたが、人々はイエス・キリストを十字架につけました。
弟子の一人は全くイエス様を裏切ってしまい、他の弟子たちも身の危険を感じて、逃げてしまいました。
モルトマン氏はその光景を思い描く中で、自分のおかれている絶望と、全く同じだと感じたのです。
イエス・キリストは、壮絶な死を味わいました。
絶望のどん底の中の死でしたが、三日後によみがえられました。
キリストは、あの絶望の中から、復活されたのです。
モルトマン氏は、自分もあのキリストを心の中に持つなら、復活できるのだと望みを持ったのです。
そのような中で、「希望の神学」は生まれたのです。
本当の望みとは、神様です。イエス・キリストです。
このお方と共に歩んでいく時に、私たちは、本当の望みを、本当の希望を持つことができるのです。
ダビデは言いました。「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。」(詩篇119:71)
苦難や患難を通ってこそ、夢・ビジョン・願いは叶うのです。
苦難というトンネルを通った時、祝福の道が開かれるのです。
残念ながら、苦難の中で心が曲がってしまう人もいるのです。
私たちは、苦難を正しく捕えていく必要があります。
苦難は、私たちの自我を砕き、今まで見出すことのできなかったことを見出し、そして神を見出すものなのです。
(HCCライブチャーチ名古屋教会 牧師 竹内徹先生のメッセージより) 13/05/2008 喜ばせる 箴言 23:25あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。
授業参観日を迎えるにあたって、ある女の先生は、
どうしたらクラス全員の親が希望にあふれることができるだろうかと考えました。
そして、良い考えが浮かびました。
先生の質問に対し、答えが分かったら5本指を広げて手を挙げる、
合っているかどうか自信がなかったら3本指を出して手を挙げる、
全然分からなかったらグーを出して手を挙げるようにと生徒たちに伝えたのです。
つまり、クラスの全員が手を挙げるようになるのです。
そして、参観日当日がやってきました。
先生が約束したとおり、クラスの全員が手を挙げました。
それを見て、普段、勉強ができない子供の母親も、自分の子供が手を挙げていると喜んだというのです。
先生は、5本指を出して手を挙げている生徒だけ当てたのです。
神様の愛は、このような愛です。
私たちが色々なことができるというよりも、「神様、助けて下さい。」と単純に求めることを、
神様は喜ばれるのです。
神様は、このように、お母さんのような愛を持っているお方なのです。
あなたのお母さんが、一番喜んだ日…。それは、あなたがこの地上に生まれた日ではないでしょうか。
『五体不満足』を書かれた、乙武洋匡(おとたけ ひろただ)さんは、手足がない状態で生まれました。
しかし彼の母親は、そのような重い障害をもって生まれた彼を見た時
「まあ、かわいらしい。」と言ったのです。
彼は、母親の大きな愛の中で育ち、今では、テレビのキャスターなどを務め、活躍しています。
神様は、私たちが、神の子となって歩むことを心から望んでいます。
上の御言葉で、「あなたの父と母を喜ばせ」とありますが、どうしたら喜ばせることができるのでしょうか。
それは、父母に感謝することです。それから、父母を敬うことです。そして、神様の愛を届けることです。
これらのことは、父母を喜ばせることでもありますが、神様が望んでいることでもあり、祝福への近道なのです。
今日は母の日ですが、お母さんに感謝すると同時に、お母さんを与えて下さった神様に感謝しましょう。
エペソ2:10には、「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって
造られたのです。」とあります。
自分の頑張りで、人を愛したり赦したりすることはできません。
しかし、イエス・キリストが力を与えて下さり、人を赦し、愛し、励ますことができるようになるのです。
私たちはみな、神様の素晴らしい作品です。神様の大きな愛の中で、前進させて頂きましょう。 09/05/2008 神の選び ローマ 9:11-13その子供たちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、
神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、
「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。
ヤコブを愛し、エサウを憎む…。神様は不公平な方だと、思われるでしょうか。
しかし、14節には、「神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。」とあります。
私たちは、ただ恵みによって救われ、選ばれたのです。
ある金持ちが、孤児院を訪れました。
そこには沢山の子供がいるのですが、その中から金持ちは、一人の子供を選びました。
選ばれたその子供は、金持ちの子供になり、両親の財産を受け継ぐ、相続人となりました。
選ばれたその子供は、一日のうちに、全く身分も状況も変わるのです。
その子供が何か特別なことをやったのではなく、金持ちの人に、ただ選ばれただけなのです。
神様が、それと同じだというのです。
主が私たちを選んで下さったのは、私たちが頑張ったからでも、何か秀でていたからでもなく、
ただ恵みによってなのです。
因果の図式が深く根を張っていると、恵みの裏側には何か原因や理由があるはずだと分析したがるのです。
挙句の果てには、先祖や家系のところまで考えがいってしまいます。
聖書はこれらの考えを、「律法主義的な考え」だと明確に言っています。
私たちがその中にいるのなら、これは大きな間違いです。
聖書の中にヨブ記というところがあります。
全てを失い、体にできものができたヨブに、友人たちは、
「お前は神様に対して愚かだったからこうなったのだ。何か悔い改めることがあうのではないか。」
などと言って、ヨブを責めました。
これはこのせいで、あれはあのせいでこうなっている。…
このような考え、律法主義の上に立っている以上、恵みというものは流れてこないのです。
私たちは恵みによって救われ、選ばれ、祝福されている。
私たちは、その恵みの中で生活させて頂くのです。
そして、この恵みがよく分かり、それを感謝して歩んでいく中で、聖書にある恵みをもらい始めるのです。
「わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。(出エジプト記33:19)」とあります。 自分を見ていじけている方はいらっしゃいませんか。
そうではなく、恵みによって救われた私たちは、恵みによる生活をさせていただき、
聖書にあるすべてのものをもらっていくのです。
(HCCカンファレンス礼拝での榊山清志先生のメッセージより) |
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