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日志


2009/4/27

人とは、何者なのでしょう         詩篇 8:3-4

 
 
あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、
人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。
 
 
 
ダビデは、星がきれいに整えられて、空に並べられている姿を見て、
神様の偉大さを見、神様をほめたたえました。
ダビデはいつも、神を見出す人だったのです。
また、科学者のアイザック・ニュートンも、
「神の創造の業は、私の小指の半分を見れば明らかである。」と語られました。
私たちも、すべてのものの中に、神様を見出すことができたら、なんと素晴らしいことでしょう。
 
ダビデは、自分に目を向けてみた時に、「人とは、何者なのでしょう。」と語られました。
ダビデは、8人兄弟の一番末息子でした。
本来は、長男が祝福を受けるべきなのに、末息子の私が特別に選ばれたという感謝が、
毎日あったのです。
「ダビデ」とは、「愛される者」という意味です。
ダビデは生涯愛され、40年間王として歩まれました。
しかし、ダビデはいつも、自分の弱さというものを認めていました。
だからこそ、いつも主を目の前においていたのです。
 
人とは、何者なのでしょう。人とは、本当にちっぽけなものです。
しかし、神様はそのお一人お一人に目を注いで下さるお方です。
「あなた」に目を留め、非常に愛して下さるお方です。
罪人であっても、色々な失敗があっても、才能があってもなくても、
限りない愛で愛して下さるお方です。
そして、神様の素晴らしい栄光をあらわそうとして下さるお方です。
神様は、素晴らしい器として、私たち一人ひとりを尊く用いて下さるのです。
 
何か問題があるからといって、神様から愛されていないと思ってはいないでしょうか。
また、何か身体的なハンディキャップがあるからといって、
その家や先祖に問題があるのではと思ってはいないでしょうか。
でも、神様の考えは、そのような「人の考え」とは違うのです。
すべては、その人を通して神様の栄光があらわされるためなのです。
人に目を向けるのではなく、神様の栄光に目を向ける中で、すべてはプラスになっていくのです。
 
やらなければならないことを自分でやろうとすると、疲れて倒れてしまいます。
やはり、「私にはできない」という、ダビデと同じ所に立たせて頂かなければならないのです。
そして、主が力強いお方なので、主にあってはどんなことでもできる!と信仰を働かせていくのです。
世の中のもので、神様の恵みをふさいでしまう者にならないで、
ふさいでいるものを神様によって取って頂き、神様の恵みでいっぱいにさせて頂くのです。
神様は、私たちを豊かにさせて下さるお方です。
今日、信仰を働かせる中で、神様の恵みで満タンにさせて頂きましょう。
 
2009/4/21

幸いな人           詩篇 1:1-6

 
 
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。
時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
その人は、何をしても栄える。
 
 
 
幸いな人とは、どのような人でしょうか。
神様とともに歩み、神様の愛の中に生きることが幸いであると、聖書は教えています。
2節には、「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」とあります。
主のおしえにまさるものは、何もありません。
聖書を読んだら、世界の始まりと終わりが分かるのです。
また、人間のことがよく分かるようになるのです。
頭がよく生きる…というわけではなく、主にあって、かしこく生きることができるようになるのです。
聖書の御言葉は、疲れたたましいに活力を与えて下さいます。
そして、私たちの心に喜びをもたらし、目を明るくさせる…つまり、
神様のことがよく分かるようになるのです(詩篇19:7-8)。
私たちは、聖書を通して、神様の素晴らしさを味わうことができるのです。
 
イエス様がある村に入られた時、マルタとマリヤという二人の姉妹に出会いました。
姉のマルタは何でもできる人で、イエス様をもてなそうと一生懸命準備をしていました。
ところが、妹のマリヤは、ただイエス様の足元に座って、イエス様の話に聞き入っているだけでした。
よく気がつくマルタは、そのような妹の姿がじれったく思えたのでしょう。
「私のお手伝いをするように、妹におっしゃって下さい。」と言いました。
しかしイエス様は、「マリヤは良いほう(御言葉に聞き入ること)を選んだのです。
彼女からそれを取り上げてはいけません。」とおっしゃられたのです(ルカ10:38-42)。
皆さんはいかがでしょうか。
忙しさの中で、御言葉を読むことを忘れていないでしょうか。
聖書を読み、聖書の中で恵みを頂き、神様を賛美し、ほめたたえることを忘れてはならないのです。
 
「時が来ると実がなり、その葉は枯れない。」とあるように、
イエス様とともに歩む生活は、毎日みずみずしさを感じる生活なのです。
自分の弱さを認めて、神様の力強さの中で歩むのです。
それに対して「悪者」というのは、自分自身の心を変えない、自己中心的な歩みを言います。
私たちはそのような歩みをする者にならないで、いつもイエス様とともに歩み、
イエス様の香りを感じる者とならせて頂くのです。
伝道は、そのような中でなさるのです。
「あなたの隣人が、あなたを通して神様に出会うこと。」…これこそ、キリストの証人です。
 
皆さんの言葉は、人々を生かしているでしょうか。
否定的な言葉を出す者にならないで、いつでも、言葉を通して、態度を通して、
人々を生かす者とならせて頂きましょう。
 
 
2009/4/15

よみがえられたイエス様        ルカ 24:1-12

 
 
あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
ここにはおられません。よみがえられたのです。
 
 
 
皆さん。人生について考えることは、あるでしょうか。
人生について考えていく時、その行き着く先は、墓場であることを知ることと思います。
しかし、同時に知ってほしいことは、人間は死んで終わりではないということです。
 
イエス・キリストは、十字架上で死に、三日目によみがえられました。
この、よみがえりのイエス・キリストを信じていく時に、すべてが新しくされ、
永遠のいのちを頂くことができるのです。
イエス・キリストは、私たちに希望を与えて下さり、永遠のいのちを与えて下さるのです。
 
イエス・キリストは十字架上で死なれた後、確かに墓に納められました。
その様子を見ていた女たちもいました。
しかし、三日目の朝早く、彼女たちが目撃したのは、石が墓からわきにころがしてあり、
イエス・キリストの体がないという状況でした。
そして、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が女たちの近くに来て、
「ここにはおられません。よみがえられたのです。」と言われたのです。
 
イエス・キリストは、私たちの心の中に来て下さるお方です。
どこか特別な場所に行って祈るのではなく、いつでも共にいて下さるお方です。
今も生きていて、私たちに素晴らしい恵みを与えて下さるお方です。
 
コリント人への手紙第一の15章22節には、
「アダムにあってすべての人が死んでいるように、
キリストによってすべての人が生かされるからです。」とあります。
また、26節には、「最後の敵である死も滅ぼされます。」とあります。
神様は、死の力を打ち破って、イエス・キリストをよみがえらせ、私たちに希望を与えて下さったのです。
人間は死んで終わりではないので、死んだ後の備えをする必要があるのです。
この世の中の多くの人々は、お墓など、死んだ時の備えはしていても、
その後のことについては、あまり考えていません。
死んだ後の備え、…それは、永遠のいのちである天国か、永遠の滅びである地獄か、
どちらかを選ばなければならないということです。
 
 
人生には、様々な問題があります。
でも、大切なのは、信仰の創始者であり完成者である、イエス様から目を離さないこと
なのです(ヘブル12:2)。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)というパウロの姿勢を
模範とさせて頂くのです。
今日、イエス・キリストに目を向ける中で、永遠のいのちをいただく備えをさせて頂き、
天国に入る備えをさせて頂きましょう。
 
2009/4/7

神は愛です           ヨハネⅠ 4:7-11

 
 
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、
なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
 
 
 
イエス様がゲッセマネで十字架に架けられようとしている、
その大事な時に、弟子たちはみな、眠ってしまったのです。
シモン・ペテロも、この大事な時に寝ていたのです。
イエス様は彼に、「シモン。眠っているのか。」と言いました(マルコ14:37)。
「シモン」とは、彼の父ヨハネがつけた名前で、葦(あし)という意味です。
「ペテロ」とは、イエス様がつけた名前で、岩という意味です。
イエス様と出会った時、彼は、「葦」のように揺れ動く人ではなく、
信仰に根ざした「岩」と変えられたのです。
しかし、大事な時に眠ってしまった彼に、イエス様は「ペテロ」とは言わなかったのです。
彼は、弱々しい「葦」のような人間に戻ってしまったのです。
私たちも、不信仰や疑いや悲しみという現実の中に戻ってしまうことはないでしょうか。
愛も喜びもない心に戻ってしまうことはないでしょうか。
もしそうだとしたら、私たちはもう一度、神様を信じ、神様に従っていく必要があるのです。
愛とは、神様を信じる中から生まれるのです。
 
もらう愛よりも、与える愛に関心を持たせて頂くのです。
祈ることも、与える愛のあらわれなのです。
イエス様は、大きな犠牲を持って祈り続けられました。
そして、私たちの憎しみ、呪い、妬み…すべてのために十字架に架かって下さったのです。
そこに赦しが、救いが、そして癒しがあるのです。
これは、すべての人が頂くことができる恵みなのです。
 
もう一つの、与える愛のあらわし方。
…それは、伝道することです。
人々にイエス様を宣べ伝えることです。
イエス様は、私たちの力となり、平安となり、新しいいのちをお与えになるお方です。
この素晴らしい福音を、伝えさせていただくのです。
これこそが、与える愛です。
 
先程、眠ってしまったシモン・ペテロは、その後、
イエス様が十字架に架けられようとする時に、恐くなって、人々からたずねられた時、
3回も「イエス様のことを知らない」と言ってしまいました。
しかしやがて、イエス様が復活してあらわれた時、
「ヨハネの子。あなたはわたしを愛しますか。」と3度も言われました。
失敗しても神様は、どこまでも愛して下さるお方です。
シモン・ペテロも、この時神様の愛を頂いて、新しい力を頂いたのです。
私たちももう一度、神様の愛に根ざす者とならせて頂くのです。
そして、新しい力を、いのちを頂く者とならせてもらいましょう。
 
2009/4/1

目を離してはいけない        ヘブル 12:1-4

 
 
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
 
 
 
聖書は、「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てなさい。」と言っています。
「罪」とは、「的はずれ」ということです。
つまり、神様から心がはずれることを、罪というのです。
神様から目を離して、お金やこの世の様々なものに目を向ける時、
神から離れる結果となり、やがて罪に至ってしまうのです。
 
そして、「競争と忍耐をもって走り続けよう。」とあります。
私たちは皆、天国に向かって競争しているのです。
しかし、この「天国」というものを、あまりにも将来的な行き場だと思ってはいないでしょうか。
聖書には、「イエスから目を離さないでいなさい。」とあります。
今日、聖書を通して、イエス様のことが、そして天国が分かる者とならせていただくのです。
聖書を読んで、イエス様がどんなに素晴らしいお方かが分かれば、正しい読み方です。
 
ある所で、このような試みが行われたそうです。
生まれた赤ん坊に、一方は抱きかかえたり頬ずりしたりしながらミルクを与え、
もう一方はスキンシップを一切せずに事務的にミルクを与えていました。
すると、スキンシップをしながらミルクを与えていた赤ん坊はどんどん成長していったのに対し、
そのようなことをせずにミルクだけを事務的に与えていた赤ん坊は、
やがてミルクを受け付けずに、大きくならなくなってしまいました。
神の御言葉によって養われないクリスチャン生活は、
スキンシップをせずに育てられた赤ん坊のようなものです。
そこには成長もなく、楽しみも、勝利も、何もないのです。
 
イエス様は、すべての保証人となって下さる方であることを、信じなければならないのです。
イエス様は、馬小屋で生まれてから、十字架につけられるまでの33年間のこの世の生涯の中で、
恥を受け続けてきました。
それは、私たちの受けるべき恥だったのです。
イエス様は、私たちの身代わりとなって、恥を全部負って下さったのです。
それでも、イエス様には喜びがあったのです。
なぜなら、その向こうには人々の救いがあったからです。
私たちの今日の救いは、イエス様の大きな犠牲の愛によっているのです。
 
このイエス様から目を離してはならないのです。
目を離した途端、元気を失ってしまうのです。
元気を失い、疲れ果ててしまったら、イエス様だけを見ていくのです。
イエス様から力を頂くのです。
毎日聖書を読み、御言葉から力を頂くのです。
イエス様は十字架上で、一滴も残さずに、すべての血と水とを流されました。
これがイエス様の贖い(あがない)です。
イエス様の流された血潮によって、ゆるされ、きよめられるのです。
そして、この素晴らしいイエス様を、多くの人々に伝える者とされましょう。