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28/04/2006 あわれみ深い主は、私たちに目を留められる。 ヨハネ5:1-8ベテスダ(あわれみ)という名の池は、水がかき回された時に最初に飛び込んだ者の病が癒されると言われていました。そこには多くの病人がいましたが、その中に38年間もの間、病に伏せっている人がいました。
イエス様は、その彼に、こう語りかけました。「よくなりたいか。」
彼は、「私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もう他の人が先に降りて行くのです。」と、自分の現状をそのまま言いました。
イエス様は彼に言われました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
すると彼は、すぐに直り、床を取り上げて歩き出しました。
彼は、きっと長い病の中で夢も希望も失って自暴自棄になっていたことでしょう。
イエス様は、そこに目を留められたのです。
そしてイエス様の言葉・・・「よくなりたいか。」
それから 「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
この二つは、イエス様の半ば怒りにも似た、強い意志が込められています。
・・・「(本当に)よくなりたいか?!」
それから、「(もたもたしないで、早く)床を取り上げて歩きなさい!」・・・
おそらくそれに近い気持ちで語られたのでしょう。
イエス様は彼に対して、一歩前進することを望んでいたのです。
彼は38年間全く変化がありませんでした。
変化がない生活は、ビジョンもなくなり、不信仰に陥ってしまうでしょう。
そのような状況の彼にイエス様は目をとめ、強く語られたのです。
「よくなりたいか。」イエス様は同じように私たちにも語りかけています。
最初の一歩を踏み出すのには信仰がいるでしょう。
私たちは信仰と希望と愛をもって、最初の一歩を踏み出させて頂くのです。
そして、神様に対しても人に対しても「助けて下さい。」と言える事が
大切なのです。
あわれみ深い主は、私たちに目を留めて下さり、大きな祝福を
与えて下さるお方なのですから。 19/04/2006 死は勝利にのまれた コリントⅠ 15:50-58
しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、
「死は勝利にのまれた。」としるされている、御言葉が実現します。
「死」は私たちの永遠の問題です。
誰も、この問題から逃れることはできないのです。
では、死という問題に直面した時、私たちには解決の道がないのでしょうか。
私たちはやがて死に、この地上での生活を終えます。
その肉体は永遠に残るものではなく、この血肉だけでは
神の国を相続することはできないと聖書は教えています。
「死」の問題に対する唯一の解決の道が、イエス・キリストなのです。
このイエス・キリストを信じ受け入れた者には、生涯どんな問題が起きても、
揺り動かされることはないのです。
イエス様は、私たちの罪のために身代わりとなって十字架に架かって下さり、
その罪を地獄に送って下さり、そして三日目によみがえられたお方です。
イエス様がよみがえられて栄光の姿があったのと同じように、
私たちもキリストによって変えられるのです。
天の御国では、私たちは栄光の姿に変えられ、
神様との素晴らしい交わりがあると約束されているのです。
また、よみがえられたイエス様は、私たちの「永遠のいのち」であり、
私たちの「勝利」なのです。
イエス・キリストを受け入れる時、現在のみならず、
過去や未来においても勝利が与えられるのです。
「死は勝利にのまれた。」とここでも告白されています。
クリスチャンにとっての「死」は、それだけで終わりではなく、
永遠のいのちをもたらすものと成して下さるのです。
これは、とてつもなく大きな恵みなのです。 14/04/2006 私たちの肩代わりとなって下さったイエス様 イザヤ53:1-6私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、
自分かってな道に向かって行った。 しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。 イエス様は、人々にさげすまれ、のけ者にされました。
イエス様ご自身の姿には何の魅力もない、見栄えもない、そのようなお方でした。
それはまるで、砂漠の地から出る根のようであったと、ここの箇所で書かれています。
イエス様は悲しみの中を通られ、痛みや苦しみの中を通られました。
だからこそ、イエス様は私たちの痛みや苦しみ、悲しみもすべて分かって下さるのです。
イエス様は私たちの気持ちをすべて分かって下さり、それに同情して下さるお方なのです。
イエス様は、私たちの精神的苦痛、ショックもすべて肩代わりして下さいました。
十字架でのイエス様への懲らしめが、私たちに平安をもたらしたのです。
イエス様は棘(いばら)の冠をひたいにのせられ、39回も鞭で打たれ、
そして十字架に釘付けにされ、私たちの罪のために死んで下さったのです。
肉体的苦痛はもちろんのこと、心臓が張り裂けそうなほどの精神的ショックや痛みも、
イエス様は負ってくださったのです。
このイエス様の十字架を見上げ、イエス様がどんなに傷を負って
犠牲を払って下さったか、感謝していくのです。
私たちには、すべての問題をイエス様の所に持っていける恵みがあるのです。
これは、イエスキリストを信じる信仰によって頂くことができる、大きな恵みです。
私たちには日々イエス様を信じ、祈り、イエス様に解決をしていただくことができるのです。
この恵みをいつも感謝し、歩む者とならせて頂きましょう。
07/04/2006 子どものようになって マタイ18:1-6「あなた方も悔い改めて子どものようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。
だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」
私たちはみな、大人になること、今よりも偉くなり今よりも何かできるようになること、
成長することを望みます。一人前になるため、仕事でも色々な活動でも、
一生懸命努力して取り組むことが素晴らしいと考えます。
しかし、救われるためには、「子どものようになる」ことだと神様は語っています。
この「子どものようになる」ということは、大人にとっては難しいことではないでしょうか。
子どもは単純であり、純粋です。また心がやわらかいので、すぐに神様を受け入れます。
天のお父さんである神様に、すべてをゆだねきって、任せきって歩んでいく…
これが子供のように身を低くして歩む生活であり、神様が望んでおられることです。
らい病にかかったアラムの王の将軍ナアマンは、預言者エリシャから
「ヨルダン川に行って7回あなたの身を洗いなさい」と言われた時、
最初は心を硬くして怒って去ってしまいましたが、そのあと彼は悔い改め、
お言葉通りにヨルダン川に7回身を浸し、彼の体は癒されたのです(列王Ⅱ5章)。
また、夜通し働いても魚一匹とれなかったシモン・ペテロも、
「深みに漕ぎ出して網をおろして魚をとりなさい。」というイエス様の言葉に従っていった時、
網が破れそうになるほどの収穫を得ることができたのです(ルカ5:1-6)。
方程式を解くように考えても、神様は分かりません。
神様が望んでおられるのは、子どものように単純になり、純粋になること、
そして一歩踏み出して、やってみることです。
私たちも単純な姿勢をもって、神様からの祝福をもらう者とならせて頂きましょう。 |
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