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24/03/2009

善をもって悪に打ち勝つ         ローマ 12:21

 
 
悪に負けてはいけません。
かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
 
 
 
私たちの生活の中では、誰一人、一人きりで生きている人はいません。
常に、周りの人との関係を持ちながら生きています。
家族、職場や学校の仲間、友達、家の近所の方々、親族の方々などがいます。
 
 
その中には、良い人も沢山います。
しかし、自分にとって良くないなと思う人も沢山います。
気が合わない人、とげとげしい人、親切でない人、悪意を抱いている人、心の狭い人…。
そのような「悪しき隣人」に対しては、敵意をもって接したり、
警戒心をもって接したりするのが普通の感情です。
また、その人が攻撃してきたり悪意をもって接してきたら、
こちらも同じように攻撃したり悪意を持って接したりする…これが普通の感情です。
 
 
しかし、聖書は私たちに対して、
「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」と教えているのです。
「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」
(ローマ12:14)とうたっているのです。
聖書の基本的な考え方が、この考え方です。
 
悪に出会う時、もっと大きな悪で復讐してやろうという心が、人にはあります。
旧約聖書には「目には目。歯に歯。」(レビ記24:20)という言葉があります。
これは、ひどい言葉のように思われますが、神様の慈悲深い言葉でもあるのです。
この当時は、誰かの歯を折ったら、その折られた人は、歯を折りかえすだけではすまずに、
あばら骨をも折るような状況でした。
誰かの目をつぶしたら、目をつぶされた人は、目だけでなく、首までも折るような状況でした。
そのような状況に対し、目をやられたら目だけ、歯を折られたら歯だけで我慢しなさい。
それ以上やってはいけませんという意味合いの言葉だったのです。
これが、旧約時代の神様の慈悲深い愛の表現でした。
 
しかし、イエス・キリストは、それ以上のことを私たちに言われたのです。
迫害するものを祝福しなさい、と語られたのです。
このことを、信仰をもってやってみなさいと主は言われるのです。
その時に、勝利が与えられ、奇跡が行われ、すばらしいことがなされるのです。
愛せない、赦せない、祝福できないという心を変えさせて頂き、
聖書が教えているように、祝福を与えてみるのです。
職場や学校などでうまくいかない人、自分にとって良くないと思う人がいる時、
その人に祝福を与えていくのです。
その時、その人を通して、主が働かれるのです。
主の業が、その人を通して、なされるのです。
私たちのすべきことは、赦すこと、愛すること、祝福を与えることです。
それが、神が私たちにさせようとしている御心であり、それを通して主の業がなされるのです。
(HCCカンファレンス礼拝での榊山清志先生のメッセージより)
17/03/2009

GOOD NEWS             ローマ 5:21

 
 
それは、罪が死によって支配したように、
恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、
永遠のいのちを得させるためなのです。
 
 
 
「義の賜物」とありますが、この「義」とは、「正しく、罪なき者。」という意味です。
これは、人間にはないものです。また、この世の中にはないものです。
しかし、イエス・キリストを信じただけで、私たちは、そのような恵みにあずかることができるのです。
 
また18節には、次のようにあります。
「こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、
一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。」
たった一つの罪を犯したことによって、全員が罪に定められた(創世記3章)のと同様に、
たった一つの義の行為、つまりイエス・キリストが私たちの罪の身代わりになって、
十字架に架かって下さったことによって、すべての罪が赦されたのです。
このイエス・キリストを信じた人は皆、すべての罪が赦されるのです。
これこそが、福音―Good Newsです。
 
蚤(のみ)は、コップの中に入れられると、跳ねます。
しかし、コップに紙でふたをして10秒ほどそのままにしておくと、
もう蚤は、ふたを取っても、ふたをした所より上には跳ばなくなります。
そして、一生そのコップの中で過ごすのです。
私たちも、この蚤のように、自分は何もできないと思い込んでいる者になってはいないでしょうか。
失敗を恐れて失望するのではなく、大胆に、どんなことでも挑戦させていただくのです。
私たちは、信仰によってなんでも挑戦させていただくのです。
神様の愛に満たされて、多くの人々に恵みを伝える者とならせていただくのです。
 
一人の人を愛することは、すべての人を愛することにもつながります。
一人の人を受け入れることは、すべての人を受け入れることにもつながります。
 
 
しかし逆に、一人の人を赦さないことは、すべての人を赦さないにつながり、
一人の人を憎むことは、すべての人を憎むことにつながります。
このような悪の行為は、神様が悲しまれることです。
 
一人の人を赦さなかった。憎んでしまった。…そのような罪はないでしょうか。
私たちは、いつでも悔い改めの祈りを必要とする者です。
そして、神様の前にひれ伏して悔い改める時、神様は私たちのすべての罪を
赦してくださるお方です。
過去の罪も、現在の罪も、そして未来の罪も、すべてをお赦しになるお方です。
この神様の恵みを多くの人々に伝えられるように、
そのために、良い決心をさせて頂く者とならせてもらいましょう。
10/03/2009

彼に信頼する者は、失望させられることがない    ローマ 10:11

 
 
聖書はこう言っています。
「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
 
 
 
彼…すなわち、イエス・キリストに信頼する者は、
決して失望させられることはないと、聖書は教えているのです。
どんな困難な状況の中でも、裏切られることはないのです。
イエス・キリストは、今日も生きておられ、信じる者とともに働いて下さるお方なのです。
人間の力ではなく、生きている神様がともに働いて下さるのです。
人間的な常識や、社会的な常識、医学的な常識などをはるかに超えた、
神の力が働いておられるのです。
ですから私たちは、失望せずに、希望を持って歩んでいくことができるのです。
 
マルコの福音書2章1-5節には、次のような場面があります。
中風という、大変な病気の人が、四人の人にかつがれて来ました。
彼らは、イエス様にその病を癒してもらいたかったのですが、
家の周りには人だかりができていて、とてもイエス様に近づくことができる状況ではありませんでした。
そこで彼らは、イエス様がおられるあたりの屋根をはがして、穴をあけて、
中風の人を寝かせたまま屋根からつり降ろしたのです。
非常識であり、現実離れしているように見えるでしょう。
実際、多くの方々に彼らは非難されました。
しかし、イエス様は彼らの信仰を見て、中風の人に、
「子よ。あなたの罪は赦されました。…あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」
と言われました。
信仰を見られたイエス様は、罪の赦しと、癒しの恵みを与えられたのです。
 
信仰生活というものは、常識から離れているような中に、現実離れしているような中にあるのです。
目に見えないものを、目に見えるようにするのが信仰なのです。
どんな状況の中であっても、自分に対して、教会に対して、
そして人々に対しても、信仰を持ち続けていくのです。
 
それから、私たちはどんなことでも感謝していくのです。
仕事があることも、学校に行くことができることも、すべて感謝するのです。
クリスチャンの生活は、希望にあふれているのです。
2000年前のイエス・キリストは、今日も、同じお方なのです。
2000年前の出来事…で終わりではなく、今日も同じ恵みを与えて下さるお方なのです。
御言葉を疑わずに、希望を持って歩んでいくのです。
神様は、私たちのそれぞれの生活の中に密着して、素晴らしい恵みをお与えになるお方なのです。
私たちは様々な人に出会います。
その出会いの中でも、神様が、恵みを、そしてチャンスをお与えになるのです。
イエス・キリストに信頼する中で、素晴らしい恵みを頂く者とならせていただきましょう。
03/03/2009

信じている人は誰ですか       ヨハネ 1:17-18

 
 
というのは、律法はモーセによって与えられ、
恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
いまだかつて神を見た者はいない。
父のふところにおられるひとり子の神が、神を解き明かされたのである。
 
 
 
クリスチャンになると、今までの歩みを悔い改めて、真面目に生きようとする人がいます。
しかし、自分の力で、本当に真面目に生きることができるのでしょうか。
 
 
私たちは、真面目に生きようと思っても、真面目に生きることができないのです。
真面目に生きるのがクリスチャンなのではなく、神を必要として歩むのがクリスチャンなのです。
私たちは、正しくないのです。罪を犯しやすい者です。
しかし、イエス様が正しいお方なので、そのイエス・キリストを信じる信仰によって、
すべての罪が赦されたのです。
私たちは、赦された恵みの中で、大きなビジョンを頂いて、生き生きと歩んでいくのです。
これこそ、クリスチャンとしての本当の姿です。
ですから、大いに希望を持って前に向かうことができるのです。
 
聖書の中に、このようなところがあります。
宮でイエス様が皆に話していると、律法学者とパリサイ人が、
姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れてきました。
そして、こう言いました。
「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。
ところで、あなたは何と言われますか。」
その時、イエス様は地面に何かを書いておられました。
そして、こう言われました。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
すると、年長者から一人去り二人去り、とうとうイエス様とその女の二人だけになりました。
そしてイエス様は、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。
今からは決して罪を犯してはなりません。」と言われたのです。(ヨハネ8:2-11)
 
イエス様は、地面に何を書いておられたのでしょうか。
モーセの十戒を書いていたのかもしれません。
あるいは、その場にいる男たちの、今まで犯してきた罪を書いていたのかもしれません。
イエス・キリストの宣言によって、この女の罪は、その場で帳消しになりました。
「あなたの犯した罪は、わたしが負うから!あなたの代わりに、十字架に架かるから!
でも、二度と同じ過ちをしてはいけませんよ。」という気持ちをこめて語られたのでしょう。
 
いまだかつて神を見た者はいません。
でも、イエス・キリストを通して、目に見える形で解き明かして下さり、実現したのです。
イエス様は、すべての罪を負って下さったのです。
私たちが神様の恵みの中に生きていくのなら、
私たちは生き生きと歩んでいくことができるのです。
イエス様の愛に生き、恵みにこたえ、その中で喜んで奉仕をしていくのです。
自分の真面目さの中に生きるのではなく、恵みの中に生きる者とならせて頂きましょう。