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27/03/2008

よみがえられました       コリントⅠ 15:20

 
 
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として
死者の中からよみがえられました。
 
 
イエス・キリストは、人類のすべての罪を背負って、私たちの代わりに十字架に架かって、地獄の苦しみを受け、
死の力を打ち破って、死者の中から三日目によみがえって下さいました。
このことにより私たちは、新しいいのちが与えられ、新しい出発をすることができるのです。
 
 
「私の人生は今まで、惰性で来てしまった。」「私のこの性格はどうにもならない。」「私は変わることができない。」…、
そのような考え方に対して、「違う!」と反応して、もう一度新しい出発が与えられるのだと信じて歩んでいくのです。
キリストにあっては、もう一度新しい出発が与えられるのです。
 
イエス・キリストの復活は、私たちに何を意味し、何を与えているのでしょうか。
一つ目として、キリストが神の御子であるという証明をして下さったことです。
人は、いのちを残したまま生き続けることはできません。どんな人でも、みな死んでいきます。
しかし、よみがえられたイエス・キリストによって、私たちも「生きる」ことができるのです。
 
二番目としては、私たちの赦しのためです。
罪は私たちに、死を与えます。
しかし、イエス・キリストは私たちの罪を負って十字架に架かられました。
そのために、イエス・キリストは、この世に来られたのです。
私たちの罪の身代わりとなって下さった故に、私たちは「生きる」ことができるのです。
 
三番目として、私たちに新しいいのち、新しい歩み・出発を与えるためです。
私たちも、イエス・キリストによって新しい歩みをすることができます。
否定的な人も肯定的な人に、罪の中に沈んでいた人もそこから立ち向かうことができます。
イエス・キリストは、私たちの生活もみな、変えて下さいます。
私たちの知性も明るくなり、神様が分かるようになります。
愛情も豊かになり、広い心を持つことができるようになります。
意志も強く持ち、歩み続けることができます。
 
四番目として、私たちに永遠のいのちを与えるためです。
人は誰でも、死という問題に直面します。誰も、その問題から避けることはできません。
しかし、イエス・キリストを信じる人に、その問題は無関係です。
死という問題に、勝利を与えて下さるのです。これは、素晴らしい、大きな恵みです。
 
 
イエス・キリストは、よみがえられました。
あなたも同じように、新しいいのち、新しい人生が与えられ、大きな喜びの中を歩むことができるのです。

(HCCカンファレンス礼拝での、榊山清志先生のメッセージより)

 

 


19/03/2008

イエス・キリストは私の勝利     イザヤ 53:1-6

 
 
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。
人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
…私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に
向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
 
 
皆さんは、人生の中で、何か恥ずかしい経験をされたことはあるでしょうか。
イエス様を宣べ伝える中で、恥をかいた方もいらっしゃるでしょう。
しかし、イエス・キリストほど恥を負って下さった方は、この地上にはいないのです。
 
イエス・キリストがお生まれになる約700年前に、イザヤは、イエス様のことを預言されました。
イエス様はさげすまれて、輝きがない状態でお生まれになりました。
王様の子供は、王宮で生まれます。
しかし、神の御子であられるイエス様には、そのような姿はありませんでした。
だからこそ、みんなイエス様のところに行くことができるのです。
イエス様は、私たちの友となって下さるお方です。
私たちを決して見捨てず、裏切らない、よき理解者であられるお方です。
 
イエス様が十字架上で流して下さった血によって、私たちの罪はあがなわれ、消されたのです。
イエス様は十字架上で、
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。)。」
と大声で叫びました。イエス様はどうして、そのように叫ばなければならなかったのでしょうか。
 
十字架に架かる者は、のろわれた者です。
本当なら、私たちがのろわれなければならないのです。
本当なら私たちが、神様から見捨てられなければならなかったのです。
しかし、イエス様が身代わりとなって、のろいを受けて下さり、罰を受けて下さったのです。
そして、三日目によみがえりました。これこそが、イエス・キリストの勝利なのです。
 
天国では、すべての人が栄光の姿へと変えられます。
私たちは、病の癒しを求めて祈ることもあるでしょう。
この地上で回復させて下さることもありますが、
たとえこの地上で癒されなくても、天国では永遠に癒されるのです。
よみがえられたイエス様の肉体には、傷が残っていました。
私たちのための十字架のあがないの傷は、永遠に残されたのです。
 
今日、悩んでいる人、悲しんでいる人、疲れている人、病気で苦しんでいる人などは、いらっしゃらないでしょうか。
イエス様は、その悩みも、悲しみも、苦しみもすべて負って下さるお方なのです。
イエス・キリストは、私の救い主、私の癒し主、そして、私の勝利。
このように宣言し、いつもイエス様に目を向ける中で、力を頂いて前進させて頂きましょう。
11/03/2008

神様の赦し       ヨハネ 8:1-11

 
 
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
彼らはそれを聞くと、年長者から始めて、一人ひとり出て行き、イエスがひとり残された。
…イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。
今からは決して罪を犯してはなりません。」
 
 
私たちはみな、罪人としてこの世に生まれました。
罪の性質をもっていない人は、イエス様の他には誰一人としていないのです。
この場面で、パリサイ人や律法学者たちは、一人の姦淫を犯した女を捕えて、
「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じていますが、あなたは何と言われますか。」
とイエス様に尋ねました。
この女を赦すのか赦さないのかということで、みんなイエス様に注目していました。
 
 
イエス様の答えは、「罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」でした。
年長者から一人去り、二人去り、そしてイエス様だけが残されたのです。
そしてイエス様も、「わたしもあなたを罪に定めない。」と言われました。
 
この場面でイエス様は、地面に指で何かを書いています。
イエス様が何を書いていたのかは、分かりません。
もしかしたら、この女の罪のことを書いていたのかもしれません。
でも、たった一つ分かることは、モーセの十戒の様に硬い石に刻まれたものとは異なり、
地面に指で書いたものは、風が吹いたりしたら、すぐに消えてしまうということです。
イエス様は私たちの罪を、消し去って下さったお方です。
私たちは、罪を持ったままなら、地獄へ行かなければなりません。
罪というものは、本来は、石で刻まれたように「残るもの」です。
しかし、イエス様がその罪を「引き受けた」、即ち「もらう」と言われたのです。
そこには、イエス様が十字架に架かって下さり、血を流して下さるという大きな犠牲があったのです。
 
「今からは決して罪を犯してはなりません。」と、イエス様はこの女に言われました。
イエス様は、過去の罪を消して下さるお方です。
私たちはいつもイエス様とともに、きよい歩みをさせて頂くのです。
そして私たちも他の人と接する時、過去を重ねながら見るのではなく、
過去の罪に対しては赦してあげ、信仰の目をもって見ていくのです。
私たちは罪赦された者であることを認めるとともに、他の人の罪も赦し、主とともに前進させて頂きましょう。
05/03/2008

「わかる」のではなく、「かわる」。   ヨハネ 3:1-16

 
 
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
 
 
「何か頑張って、努力したら、新しく変わるのではないだろうか。」
…私たちは、そのように考えがちです。
しかし、クリスチャン生活というものは、「何か頑張ったから変わる」というものではありません。
 
ニコデモは、夜、イエス様の所に来て、ドアを叩いて訪問しました。
老人だったニコデモは、もう一度母の胎に入ることができるのかと尋ねました。
彼は、イエス様がどういうお方であるのか、分かっていました。
しかし、分かる(わかる)ということと、変わる(かわる)ということとは違うのです。
 
 
「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3節)とイエス様は語られました。
また、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」(5節)と語られました。
水というのは、「死」を意味します。
バプテスマ(洗礼)は、死を意味するのです。
今までの自分に死ぬ時なのです。
それと同時に御霊を頂く、すなわち、神の力を得て、私たちもよみがえるのです。
ニコデモのように、「私の、この部分は変えられたい。どうしたら、私は新しくなるだろうか。」と
考えている方はいらっしゃらないでしょうか。
今日から、聖霊に満たされる中で、新しい歩みをさせて頂くのです。
 
ニコデモに欠けていたのは、「信じる」ということでした。
イエス様を神の御子と信じること、永遠のいのちを持っており、神の国に入ることができること、
これを「分かって理解する」のではなく、「信じて変えられていく」ことが必要なのです。
 
 
16節には有名な御言葉があります。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 
このことを信じる者が、変えられるのです。
 
 
私たちは、自分の力できよめつくすことはできません。
イエス様の十字架での贖いによりきよめられ、新しい変化を神様が与えて下さるのです。
イエス様は、私たちのいのち、私たちの力、私たちの勝利なのです。
イエス様が身代わりとなって、私たちの罪の処罰をして下さったことを信じて、歩んでいくのです。
肉の欲に満たされるのではなく、いつも聖霊に満たされて歩んでいくのです。
聖霊に満たされる時、人生が変わります。
聖霊に満たされることこそが、私たちにとって、勝利の道なのです。