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30/03/2007 神からの力 使徒1:8しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。
そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、
わたしの証人となります。
ペテロは、臆病な性格でした。
イエス様が捕らえられた時、一晩の間に三度も、
「イエス様を知らない。」と言ってしまいました。
このどうしようもない、意気地のない状態だったペテロだったのですが、
後に、彼が説教をし始めた時、一日に3000人もの人が救われて、クリスチャンとなったのです。
なぜ、このようなことが起こったのでしょうか。
それは、ペテロが聖霊の力を注がれたからなのです。 教会では「ペンテコステ」と呼ばれているこのことは、
皆さんにも起こる、素晴らしいことなのです。
私たちにも、聖霊の力が注がれるのです。
聖霊の力は、私たちを聖い器に変えて下さいます。
かつて汚れていたサマリヤの全土に、聖霊の力が注がれた時、
全く変えられたのと同じように、私たちの問題や罪に対しても、
聖くする力を与えて下さるのです。罪や誘惑に打ち勝つ力を与えて下さるのです。
また聖霊の力は、臆病なペテロが変えられたように、
人々を恐れない、臆病ではない、力あるものに変えて下さるのです。
そして、人々を愛し、愛を与えることができる者に変えて下さるのです。
今日、多くの人が力を求めています。
「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」
と御言葉にあるように、神からの力~聖霊の力は、
無気力から解放し、肉や汚れから抜け出し、神を愛し、
人々を愛する者に変えて下さるのです。
そして、前進する力、生きる力を与えて下さるのです。
18/03/2007 主の栄光があらわされるように 詩篇40:1-3私は切なる思いで主を待ち望んだ。
主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、 私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。 礼拝の中で賛美をささげる時だけが、賛美の時ではありません。
羊飼いであったダビデは、羊を見ながら、
「主よ、あなたこそ、私の羊飼いです。」とその中で礼拝を奉げました。
「神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23)
と御言葉にありますが、一人でいる時も、仕事の時も、色んな困難や問題の中でも、
賛美をささげ、神様に礼拝をささげていくのです。
礼拝に来る時、ここでのダビデのように、切なる思いで主を待ち望んでいるでしょうか。
主を待ち望む者は、新しい力を得ることができるのです。
疲れた時は祈れなくなるという人も、いるのかもしれません。
しかし、疲れた時に、「主よ!油を注いでください!」となおも祈る時、
その祈りがリバイバルにつながっていくのです。
「主は、私のほうに身を傾ける」とあります。
切なる願いを持っている人には、主は傾いて下さるのです。
また、泥沼のような絶望の中を歩むこともあるのかもしれませんが、
神様は、「私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げて下さった。」とあるように、
そこから解決の道を、救いの道を与えて下さるお方です。
私たちの祈りは、多くの人たちが救われてくるためのものです。
どんな状況の中でも、イエス様を忘れないで信じて歩んでいくなら、
その人の人生は必ず変わってきます。
リバイバルを信じて歩んでいきましょう。
主が、すべての成長を握っておられるのです。
教会の成長も、霊的な成長も、経済的な成長も、すべてにおいてです。
ですから、奇跡を信じて歩んでいきましょう。
そして、主の栄光があらわされるように、まことの礼拝者として歩んでいきましょう。
16/03/2007 信仰をもって、動き始める イザヤ43:18-21見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。
あなたがたは、それを知らないのか。 確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。 ディズニーランドの創設者であるウォールト・ディズニー氏は、
子供の頃、とても貧しい家庭で育ちました。
家の壁は穴だらけでした。
ある日、その壁の穴からネズミが出てきました。
彼には絵を習う経済的余裕もなかったのですが、ふとそのネズミを絵に描いてみた時、
とてもかわいらしく描けたのです。
後にそれがミッキーマウスというキャラクターになり、世界中にヒットしていったのです。
発明王エジソンは子供の頃、勉強ができなくて、
学校の先生にも「君は頭が腐っている」と言われるほどでしたが、
エジソンの母は、そのような彼に勉強の楽しさを教えたのです。
エジソンは母親に励まされ、ついには発明王となることができたのです。
私たちにとって、今、見える状況がどうであろうとも、
神様は御言葉どおり、荒野に道を、荒地に川を造って下さるお方です。
私たちには様々な祈りがあるでしょう。
それを祈り始めた時から、もう仕事は始まっているのです。
それを最後の最後まで、主によりすがり続ける者が、
祈りの答えを、そして主の栄光を見ることができるのです。
夢・ビジョンは、「描いたとおり」になるのです。
主から目を離さないで、主からのビジョンを頂き、いつもそれを描き続け、
必要な道具を準備し、祈りの答えを見させて頂くのです。
神様は私たちに、素晴らしいものを与えて下さいます。 09/03/2007 弱さを誇る~キリストの力がおおうために Ⅱコリ12:9-10ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、
困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、 私は強いからです。 甘んじている…と、ここで書かれていますが、
これは、神様に拠り頼んでいるということです。
パウロは、肉体に一つのとげがありました。
彼は、このとげを私から去らせて下さいと祈りましたが、
主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。」と言われました。
私たちはしばしば、自分が強すぎるので、神様の栄光が現されないのではないでしょうか。
神様がいないと何もできないのにも関わらず、何か自分が強くなると、
自分で頑張ってしまい、その栄光を見ることができなくなってしまうのです。
「自分」というものがなくなって、神様の力に任せることができたらよいのです。
キリストの力におおわれ、すべての状況を喜んでお迎えしたらよいのです。
嫌な出来事も、人に笑われたりバカにされたりすることも、
すべてにおいて「ようこそ!」とお迎えするのです。
パウロは、イエス様を真ん中に置きました。
イエス様は、神の子であったのにも関わらず、一番低い所におりて下さいました。
ですから、どんなに不幸の中でも、病気の中であっても、
イエス様の所に行くことができるのです。
低い所に降りて下さったからこそ、
子供が差し出した、五つのパンと二匹の魚をも歓迎されたのです。
「足らないので、満たして下さい。」という人を、主は満たして下さるのです。
主の前にそのままささげ、弱さや足りなさを認め、主に期待しながら歩んでいくのです。
仕事の中で、家庭の中で、様々な働きの中で、弱さをおぼえることがあるでしょう。
私たちは、その中で強さを誇るのではなく、キリストの力がおおうために、
すべての中で弱さを誇り、主に向かう者とならせて頂きましょう。
02/03/2007 罪の力 ローマ3:9私たちは他の者にまさっているのでしょうか。
決してそうではありません。 私たちは前に、ユダヤ人もギリシャ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
聖書は、すべての人が罪の下にある、と宣言しています。
聖書は、罪を一つの力として表現しており、
この力が私たちを縛り、立ち上がらせないように、
誘惑に勝利できないようにしているのです。
罪は私たちを、決して放っておきません。
パウロは道徳的にも宗教的にも秀でた素晴らしい人物でしたが、
このパウロでさえ例外ではなく、自分の力ではどうしようもない、罪の力に縛られていたのです。
自分の内側にある肉の強さ、自我の強さに
いつも敗北してしまう人はいらっしゃらないでしょうか。
そうなってはいけない…頭では分かっていても、
いつもこの鎖に縛られて、勝利できないということはないでしょうか。
…甘え、わがまま、誘惑、汚れ、挫折、空しさ…。
聖書は、私たちの人間の本質について教えています。
私たちの口からいつでも良い言葉が出てくるかというと、そうではありません。
たとえ小さい子供でも、他人を罵る言葉が出てくる…これが人間の本質なのです。
罪の力と人間の本質、これが一つになったら、大変なことです。
いつも同じ所を堂々巡りし、勝利できない、鎖に縛られたこの状態は、
もう生ける屍のような状態です。
罪の力、人間の本質に勝利させる大きな恵みがあることを知って、
それを受ける者とならせて頂きましょう。
それは、イエス・キリストの十字架の購いであるのです。
イエスキリストは、どんな罪からも私たちをきよめる、
この大きな恵みを私たちに差し出しているのです。
この大きな恵みがなければ、罪を断ち切ることはできません。
自分でどんなに頑張っても、そこから打ち勝つ力はありません。
唯一勝利できる所、これはイエス・キリストの血潮であり、
イエス・キリストの十字架なのです。
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