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29/03/2006 羊とやぎのたとえ マタイ25:32-33「彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
羊を自分の右に、山羊を左に置きます。」 イエス様は私たちを救うために来られました。
しかし、世の終わりの時イエス様はもう一度来られ、その時には神の栄光に満ち満ちて、
王の王、主の主として来られます。
すべての民が集められ、最後の審判として、
羊を右に、山羊を左に置かれる時が来るのです。
このように、すべての民がふるい分けられる時が来るのです。
今の時代、国は国に敵対し、方々に飢饉や地震が起こり、
様々な形で、イエス様がいつ帰ってきてもおかしくない状況にあります。
羊というのは罪を赦されている者、山羊は罪を持っている者を示します。
イエス様が十字架に架かって代わりに代価を払ってくださったことを信じて、
この恵みにあずかる者が、罪を赦された者となることができるのです。
何をしたか、どうであったかではなく、信仰によって私たちがどちらか選び分けられるのです。
私たちがどんなに自分の義に立ち、自分の行いで頑張ってみても、
これは通用しないし、できないのです。
その心を探ってみると「何と醜い・・・。何と愚かな・・・。」という状況を見ることになるのです。
イエス様を信じることが、私たちにとっての行いであると聖書は語っているのです。 自分の義や自分の頑張りにしがみついて主張している人は、
山羊のほうに入ってしまうと語っています。
そうではなく、信仰によってこの恵みを受け取った人が羊の部類に入り、
罪を赦された大きな恵みに預かって永遠の命を頂くことができるのです。
世の中にはクリスチャン以上に立派な人が沢山います。
しかし、神様の基準は善行でも自分の頑張りでもなく、信仰です。
この信仰によって、大きな恵み・祝福にあずかる者とならせて頂きましょう。 17/03/2006 牧者であり、監督者である方 ペテロⅠ 2:21-25「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり
監督者である方のもとに帰ったのです。」
神様は、そしてイエス様は、私たちの牧者であり、監督者であるお方です。
私たちを遠く見据えて、今、何をなすべきなのかを示して下さり、
そして魂をも監督して下さるお方なのです。
人間には、「自我」というものがあります。それは、どんな人間にもあります。
私たちが、「人」を見てしまうと、色々な限界を感じ、感情に左右されて悩んでしまうことが
沢山あると思います。
しかしイエス様には「自我」というものがなく、また罪を犯しませんでした。
ののしられてもののしり返さず、苦しめられてもおどすことをせず、
正しくさばかれる方(父なる神様)にお任せになったのです。
そしてイエス様は十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。
それは私たちが罪から離れ、義のために生きるため、つまり、人々の救いのために生きる者と
変えられるためだったのです。
私たちの人生の模範は、イエス・キリストです。
イエス様が模範を残して下さったので、私たちもイエス様を見て歩んでいくのです。
人を見てつまづいている方はいらっしゃらないでしょうか。
また、自分の内側を見て落ち込んでいる方はいらっしゃらないでしょうか。
今日、この牧者であり監督者であるイエス・キリストを見て歩む者と変えさせて頂きましょう。
神様の愛から漏れている人は、一人もいません。
神様は私たちを潤し、癒し、そして永遠の命を与えて下さるのです。
豊かな恵みで満たして下さるお方です。
この大いなるお方に、いつも目を向けて歩む者とならせて頂きましょう。 10/03/2006 話さないわけにはいかない 使徒4:1-22「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」
ペテロとヨハネは、ごく普通の無学な人でした。
ペテロは臆病な者でした。 鶏が鳴く前に三回、イエス様を知らないと言ってしまったような者でしたが、
彼は大胆にイエス様をのべ伝える者に変えられたのです。
ペテロの説教で、一日に三千人が救われるような、そのような器に変えられました。
またヨハネは漁師であり、短気で狭い心の持ち主でした。
しかし、ヨハネもイエス様をのべ伝える者と変えられたのです。
皆さんの中には、話の上手な人も、あまり上手でない人もいるでしょう。
しかし、何かうまいことを話すのではなく、20節の御言葉にあるように、
自分の見たこと聞いたこと、体験したことを、そのまま伝えることが大切なのです。
これこそが伝道なのです。
イエスキリスト以外に救いはありません。
十字架に架かって死んで下さった神は、他にはいません。
ある時には癒し、奇跡を与えて下さり、心に平安を与えて下さり、
またはっきりとした道を示して下さるお方なのです。
そして何よりも、「死」という問題から勝利を与えて下さり、
天国に入れる確信を与えて下さるお方なのです。
このイエス様を伝えていくのです。
伝道や宣教の業は、「今までやってきた」という位置に立つのではなく、
「今日からやっていく」のです。
イエス様は、どんな人も、どんな問題も救い出して下さるお方です。
だから、すべてイエス様のところにお連れしていくのです。
日々の生活の中でも私たちは、悪口を言うものや裁く者にならないで、 いつも神様を賛美し、感謝する者とならせて頂きましょう。 03/03/2006 「祈りのたとえ」 ルカ11:8「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、
『君、パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。
すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて何かをやることはできない。』
あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要なものを与えるでしょう。」
私たちには二人の友がいます。
一人は沢山パンを持っているイエス・キリストであり、
もう一人は空腹で夜中に訪ねて来た友、すなわちイエス様を知らない多くの友です。
ここの箇所では、夜中に空腹で訪ねて来た友に対して、
パンを沢山持っている友に頼み続ける姿が書かれています。
そして、あくまで頼み続けるなら、主は必ず与えてくださると言うたとえが、
ここに書かれているのです。
また、「私の家に来たのだが、出してやるものがない」とあります。
自分の所にはなくても、イエス・キリストのうちには全てのものが備わっているので、
いつも主に目を向け、主に求め続けるのです。
普段の生活の中で、どれだけ主に求め続けているでしょうか。
少し求めてダメなら、これは無理だと諦めたり、
祈りを途中でやめてしまってはいないでしょうか。
この人は、真夜中に行って、熱心に求め続けたのです。
求めたことは、求め続けた時に必ず与えられるのです。
熱心に頼み続けるなら、主は必ず祈りに答えて下さいます。
聖書には、「求めなさい。そうすれば与えられます。」と書かれています。
人々の救いのため、ビジョンのために、いよいよ信仰を持って、主に食らいついて求め、祈りの答えを見出す者とならせていただきましょう。 |
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