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24/02/2009

神の権威          ローマ 13:1-2

 
 
人はみな、上に立つ権威に従うべきです。
神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、
神によって立てられたものです。
 
 
 
イエス・キリストを信じる者は、国家の指導者も決して中傷してはいけません。
中傷するのではなく、その人のために祈る側に立つべきです。
会社では社長に対しても、学校では先生に対しても、
家庭ではお父さんに対しても、同じなのです。
教会においてもそうです。
組織の上に立つ人を、中傷してはなりません。
心から尊敬し、その人のために祈っていくのです。
それは、御言葉であるように、存在している権威はすべて、神によって立てられたものだからなのです。
 
モーセの時代、コラという人がいました。
コラは、指導者に逆らってばかりいたので、滅びてしまいました。
また、ダビデの時代、サウロは神をも恐れないで、自分の都合のいいように歩んでいたので、
主がサウロを除かれたということがありました。
今のこの時代、様々な点において、権威を無視する傾向にあります。
国家の指導者を中傷してみたり、職場の社長や上司を中傷してみたり…。
そのような逆らう傾向というのが、色々な所にまんえんしています。
皆さんは、秩序を守る側ですか。それとも、逆らう側ですか。
 
ある著名な社会学者が、こう言いました。
「現代人が経験する混乱は、父親不在の社会になったために起こったものだ。」
昔は家庭で、父親が一言言えば、それで秩序が保たれたものです。
しかし今は、妻が夫をあざ笑い、夫を軽く見ている時代です。
その中で、子供も父親を軽く見ているのです。
ですから、家庭においても秩序が壊れているのです。
 
 
また、「宗教的・社会的権威を一切拒否し、理性と文化が人間を進歩させるという主張が広まっている。」
と言っている人もいます。
一見、間違っていないように思えるのです。
しかし、そうした中で、権威の崩壊や、社会的な崩壊を招いているのです。
その結果、国家の指導者を中傷し、自分の主張だけを言う人が出てくるのです。
学校においても先生の権威が不在になり、会社においても社長の権威が不在になってしまうのです。
 
聖書はクリスチャンに、神から与えられたすべての権威に従うように教えています。
社会においても学校においても、正しい秩序をもっていくのです。
まわりが中傷するから、自分も中傷する。そのような者になっていないでしょうか。
どうぞ、決して流されないで下さい。愚かにならないで下さい。
正しい秩序を持ち、本当の恵みと自由と豊かさを持つ者とならせて頂きましょう。
自分のわがままを出す中に、自由があるわけではないのです。
神の秩序に従う中に、本当の自由があるのです。
 
(HCCカンファレンス礼拝での榊山清志先生のメッセージより)
19/02/2009

新しく生まれる       ヨハネ 3:1-7

 
 
イエスは答えて言われた。
「まことに、まことに、あなたに告げます。
人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
 
 
 
このところで出てくるニコデモは、何でも手に入れるために、努力し、頑張った人でした。
パリサイ人であり、ユダヤ人の指導者だった方が、ニコデモだったのです。
ですから、自分はもう出来上がっていて、完璧であると考えていました。

 

しかし、このニコデモが、イエス様のところにやってきたのです。
彼の心の中には、
「こんなに頑張ったのに、自分にはしるしがない。」
「こんなにやったのに、自分は奇跡を見ることができない。」
…そのような気持ちがあったのです。
彼は、自分にないものを、イエス様に見いだしたのです。

クリスチャン生活は、いつも奇跡の連続であるのが本当の姿です。
人が救われることも、素晴らしい奇跡です。

しかし人は、説明で救われることはないのです。
どんなに素晴らしいメッセージをしても、そこに神様が働いて下さらなければ、
人が救われることはないのです。
証しやメッセージは、自分の言いたいことを話すことではありません。
また、自分の言えないようなことを話すことでもありません。
神様が何をして下さったかを証しし、神様が語って下さることをメッセージし、
神の御言葉の種が入るように、祈って取り組んでいくのです。

ニコデモは、頑張って神様を知ろうとしました。
しかし、頑張って色々なことが分かったりできたりするようになることが
クリスチャン生活ではありません。
神様を体験する…これこそがクリスチャン生活です。

5節には、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」
とあります。
水とは、死ぬことを意味しています。
「自我に死ぬ」ことが、「新しく生まれる」ことであると神様は語られているのです。
「自分に死ぬ」ことによって、神様が主人になるのです。
そして、神様のために生きる者となり、神様にしたがう人生を歩むことができるのです。

また6節には、「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」とあります。
人間がどんなに頑張っても、それは「肉なる自分」に過ぎないのです。
自分の力で頑張って歩むのではなく、神様に動かされて歩んでいくのです。
クリスチャンの原動力は、「神様」なのです。
イエス・キリストご自身が心の中に入る時、生きる者となるのです。

神様がともにおられることを体験させていただきましょう。
神様とともに歩む中で、学校でも、職場でも、教会でも奇跡が起こるのです。
神様は生きておられます。
この神様によって動かされ、神様から与えられるもので満たされ、神様を体験する者とならせて頂きましょう。

11/02/2009

生けるまことの神に仕える       テサロニケⅠ 1:9-10

 
 
私たちが、どのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたが
どのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、
また、神が死者の中からよみがえられなさった御子、すなわち、
やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが
天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは
他の人々が言い広めているのです。
 
 
 
テサロニケの教会は、8節で「神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっている」
とあるように、模範的な教会でした。
クリスチャンになる以前の出来事は、大した問題ではないのです。
様々な偶像からまことの神様に立ち返った、そのことを証しするのです。
 
 
この世の中には、様々な問題があります。
仕事をなくした人たち。家庭で様々な問題を抱えている人たち。
様々な問題や苦しみの解決は、イエス・キリストにしかないのです。
ですから、私たちには、証しをしていくことが必要です。
私たちの証しを待っている人たちが、沢山いるのです。
 
かつて(旧約の時代)は、年に一度、大祭司が
生きた動物の血を神様の前にささげることによって罪が赦されたのですが、
イエス・キリストがこの地上に来られ、罪の贖い(あがない)のために
十字架上で血を流されたことによって、いつでも、どこであっても、
私たちは神様の前に出ることができるようになったのです。
 
 
イエス・キリストの十字架は、私たちの贖いのためでした。
どんな人でも、永遠のいのちを頂くことができ、
どんな状況であっても、喜びと感謝をもって歩んでいくことができるのです。(ヘブル9:11-14)
 
信仰は、個人的なものです。神様との1対1の関係なのです。
その中で、個人的な祈りが答えられ、癒しがあり、救いがあり、
新しいいのちの中に生きることができるのです。
しかし、偶像を持つ中で出てくるものは、恐れや、のろい、不安です。
それは、いのちが奪われるものであり、悪魔との関係をもつことでもあります。
占いや運勢も、私たちをだますものです。
そのようなものから手を切って、神様の恵みの中を、平安の中を歩んでいくのです。
皆さんの中に、偶像はないでしょうか。
そこから戦い、偶像から立ち返って、生けるまことの神に仕える者とならせて頂くのです。
そして、生きた応答をもって神様に近づいていくのです。
「自分さえよければいい」…これは、流された歩みであり、死んだ行いなのです。
 
 
痛いところを突かれる時、どのように応答していますか。
生きた応答をして、神様との関係を回復していくのです。
神に対する愛、人に対する愛はどうであったのか、イエス・キリストによって新しくさせて頂くのです。
 
 
03/02/2009

放蕩息子の話より         ルカ 15:11-32

 
 
だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。
いなくなっていたのがみつかったのだから、
楽しんで喜ぶのは当然ではないか。
 
 
 
ある人に、二人の息子がいました。
兄は真面目な性格で、一生懸命お父さんに仕えていました。
しかし弟は、野心があり、この家を出て行こうと決心したのです。
弟は父に、「私に財産の分け前を下さい。」と言ったのです。
父は、身代をふたりに分けて、弟に分け前を与えたのです。
 
 
弟は遠い国に旅立ち、あっという間に、その財産を湯水のように使ってしまったのです。
悪いことは続きます。
その国に大ききんが起こり、彼は食べるのにも困る状況になってしまったのです。
彼は、豚の世話をするようになりましたが、豚の食べる「いなご豆」で
腹を満たしたいと思うほど、空腹だったのです。
 
この弟は、その時、我に返ったのです。正気に戻ったのです。
全部を失った時に、見えてきたのです。
今まで迷っていた状態だったのが、道が分かったのです。
それは、「お父さんのところに帰る」ということでした。
そして、天のお父さんに対しても、自分の肉親に対しても罪を犯したことを謝るということでした。
財産を全部使ってしまったので、もう、子と呼ばれる資格を失ってしまった。
だから、雇い人のひとりにしてもらおう。…彼はそう考えたのです。
 
彼は、自分の父のもとに行きました。
父親は走りよって彼を抱き、口づけをし、一番良い着物を着せ、指輪をはめさせ、くつをはかせ、
肥えた子牛を引いて祝宴を始めたのです。
父は、指輪も靴も、全部備えて待ち続けていたのです。
本来なら子としての資格を失っていた弟でしたが、
父は、その関係をも全部元通りにされたのです。
 
 
これは、神の愛です。イエス・キリストの愛です。
 
私たちも、食い改めをしなければならないのです。
天の父に対して、わがままをしていたことを赦してくださいと謝るのです。
また、この地上の人に対しても、そのようにするのです。
我に返って父の元に帰った弟がそうされたように、
私たちも悔い改めて、神様との関係を元通りにさせて頂くのです。
 
今日という日は、二度とやってきません。
私たちは、今日、イエス・キリストを救い主として、信じ受け入れる必要があるのです。
神様は、悔い改めてイエス・キリストを信じ受け入れる時、すべての罪を赦してくださるお方です。
神様の愛からもれている人は、一人もいません。
このGood News(福音)を受け入れ、イエス・キリストとともに歩む者とならせて頂きましょう。