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25/02/2008

御霊は私たちを助ける   ローマ 8:26

 
 
御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。
 
 
私たちは、弱い存在です。
聖書では、「土の器」と書かれていますが、私たちは土の器のように壊れやすい存在なのです。
私たちの体も、どんなに強そうに見えても、弱いものなのです。
また、精神的にもそうです。何かあるとすぐに落ち込んだり、悩んだりする、弱い存在です。
また霊的にも私たちは、土の器のように弱い存在です。すぐに肉に振り回されたり、高慢になったりするのです。
 
しかし、聖霊様が私たちの内にある時、私たちは決して弱くはならないのです。
聖霊様は、私たちの弱い部分、足りない部分を全て、カバーして下さるのです。
例えば顔が良くなくても、聖霊様が内側にある時、顔をカバーして下さり、素晴らしい喜びの顔に変えて下さるのです。
言葉が足りなくても、その言葉をカバーし、素晴らしい恵みの言葉に変えて下さるのです。
態度も、知識も、知恵も、心も性格も、生活のすべてを、聖霊様が助けてカバーして下さるのです。
 
祈りには、その人の姿がよく出てきます。
祈り以外のもの…例えば、作業や奉仕、学び、伝道…、そのような中では、案外、自分自身をつくろって、
たとえ心に問題があっても、何も問題がないかのようにできてしまうのです。
しかし、祈りだすと急にブレーキがかかり、上手くいかない、そのような状況を見ます。
 
祈りが弱いということは、聖書の中でもその話が出てきます。
イエス様が行かれる所に、いつでも従順についていった弟子たちでしたが、
イエス様が「祈りに行きましょう」と言った時は、みな眠ってしまいました。
イエス様が、弟子たちを起こさなければならない状況でした。
しかし、弟子たちが聖霊を受けた後、彼らの祈りが変わり、家全体が動き出すほどの祈りに変わったのです。
 
祈りに専念して取り組む…皆さんは、そのようなことをなさったことはありますか。
祈りは、私たちを助けるのです。
主に叫び求める者は、祈りによって力強く前進することができるのです。
祈り始めると、水を得た魚のように、主と交わりながら力強い歩みをしていくことができるのです。
私たちの内側におられる聖霊は、私たちの祈りを助け、私たちに大きな力を与えるお方です。
 
神様はなぜ、私たちに祈りを与えたのでしょうか。
それは、祈りを通して、私たちが神様の願っている姿に変わるために、
また、聖霊の力を注いで、力強い神様の器になるためなのです。
聖書の中でペテロがイエス様とともに舟に乗っていた時、嵐に遭遇しました。
ペテロは恐ろしくなって、必死になって慌てふためいていました。
しかし、聖霊の恵みをペテロが持った時、ペテロは平安と余裕を持つことができるようになったのです。
 
 
神様は全て、益として下さいます。
問題や困難、それは神が私たちを祝福して下さる、大きな計画の一部なのです。
 
(HCCカンファレンスでの、榊山清志先生のメッセージより。)
19/02/2008

祝福を頂くために捨てるべきもの   ルカ 19:1-10

 
 
きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。
 
 
取税人のかしらで金持ちであったザアカイは、自分の住んでいるエリコの町にイエス様が来られた時、
イエス様をひと目見ようとしましたが、群集のために、見ることができませんでした。
そこでザアカイは、イチジク桑の木に登りました。
 
イエス様はちょうどそこに来られ、
「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
と言われたのです。
 
ザアカイは、自分の名前を呼ばれたことで、驚き、急いでそこから降りてきて、
そして大喜びでイエス様を迎えたのです。
 
イエス様は、ザアカイのことを全部知っておられたのです。
彼が、罪にまみれた状態であることも知っていました。
だからこそ、その日イエス様は、どうしてもエリコの町に行って、
ザアカイに会いに行かなければならなかったのです。
 
 
神様は、私たちのことを全部知っておられます。
誰もわからないだろうと思っていても、神様は全部見ておられ、分かっておられるのです。
 
 
ザアカイはイエス様に出会い、その日のうちに変えられました。
彼は、「私の財産の半分を貧しい人たちに施します。
また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」と言われました。
あの、自分の利益しか考えることができなかったザアカイが、そう言われたのです。
イエス様は彼に、「きょう、救いがこの家に来ました。」と言われたのです。
 
私たちが祝福を頂くために、捨てるべきものがあります。
これは、ザアカイがこの箇所で実践されたこと、そのものです。
1. プライドを捨てること(ザアカイは、プライドを捨てて木に登りました。)
2. 罪を捨てること(ザアカイも悔い改めて、神に立ち返りました。)
3. 自分の欲を捨てること(ザアカイは財欲を捨て、私財を分け与えました。)
 
 
この3つを捨てたザアカイは、劇的に変わったのです。
備前焼という焼き物がありますが、1500度ほどの高温で焼かれるので、
土で作られたのにも関わらず、叩くと金属のような音がするのです。
火を通ることで、土も、金属のように変わるのです。
同じように、人間においても、「火」を通る人は変わるのです。
私たちも、「きよめの火」を通して、神の栄光を現わす器と変えられましょう。
そして私たちの内にある、プライドを捨て、罪を捨て、欲を捨てる中で、
イエス様に出会い、神様の祝福を頂く者へと変えさせて頂きましょう。
12/02/2008

力を受ける   使徒 1:8

 
 
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。
そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、
わたしの証人となります。
 
 
ペテロは、イエス様の弟子の一人でした。
漁師でもあり、気は荒く、自分こそがイエス様の一番弟子だと自負していました。
しかし、イエス様が十字架に架かろうとする状況の中で、ペテロはイエス様を否んでしまいました。
結局は、意気地なしの行動しか取ることができなかったのです。
 
しかし、その意気地なしのペテロが、変えられたのです。
大胆に福音を宣べ伝える者となったのです。
一晩で、そこにいた者3000人が救われ、クリスチャンとなったのです。
なぜ、このようなことが起こったのでしょうか。
それは、聖霊の力を受けたからです。教会ではこれを、ペンテコステといいます。
 
聖霊の力を受けることにより、ペテロも弟子たちも、皆、変わったのです。
それは、ここに出てくる彼らだけではなく、私たちも皆、頂くことができるのです。
 
聖霊の力…それは、私たちを、きよく変えることができます。
罪人、汚れた者、傲慢な者、肉欲が強い人も、きよさが一杯溢れる人に変えられるのです。
また人々を恐れていた人も、人々を恐れないで、勇気をもって前進するように変えられるのです。
胸を張って、力をもって前進する人に変わるのです。
また、いつも自己中心で、自分のことしか見えなかった人も、外に目が向けられるように、
そして人々に愛を与える人に変えられるのです。
生活の中で様々な弱さや足りなさをおぼえている者も、臆病な者も、皆、変わるのです。
 
ご存知でしょうか。
もし、自分の親の酒癖や暴力などといった悪癖を赦すことができなかったら、
自分もやがて同じ道をたどり、同じような問題を起こしてしまうのです。
その悪循環から断ち切るには、赦し・赦される関係が必要です。
 
また、親が子供に対し、ただ自分や家族のためだけに育てていたら、
子供はやがて、親の元を去っていくのです。
良いように見えても、それは間違った育て方です。
そうではなく、いつも、神の栄光を表すために育てていくのです。
 
私たちの生き様が、もし自分中心であるなら、全てがうまくいかなくなってしまうのです。
実際の生活の中で、様々な問題が起こってきます。
しかし、どのような問題の中にあっても、イエス・キリストが私たちに力を与えて下さるのです。
人々を愛する力を与え、前進する力を与え、きよさを与え、
生きる力を与えて下さるイエス・キリストにより頼み、力ある歩みをさせて頂きましょう。
(HCC浜松教会主任牧師 榊山清志先生のメッセージより)
05/02/2008

豊かな実を結ぶために「死ぬ」こと   ヨハネ 12:24

 
 
まことに、まことに、あなたがたに告げます。
一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。
しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
 
 
人は、豊かになるために、自分が得になること、自分がプラスになることを考えます。
何でもできるようになることが、信仰の目的だと思いがちです。
しかし、もし、自分の願いが叶っても、強くなったとしても、
それが神様の御心から離れたものであるならば、何の意味もないし、実を結ぶことはできないのです。
 
ここでは、「死ねば、豊かな実を結ぶ」と教えています。
新しい心、霊的な恵みを頂くためには、自分自身に「死ぬ」ことが必要なのです。
すなわち、(1)自分自身を捨て、(2)自分の力を否定し、(3)0(ゼロ)になっていくことです。
 
私たちは、裸で、何も持たずにこの世に生まれました。
何もできずに、全て親などのお世話になって、今現在まで生かされてきました。
しかし、いつの間にか「自分が何かやったから、こうなることができたのだ。」という考えになり、
高ぶってはいないでしょうか。
私たちは、どんなに成長しても、何かできるものだと思ってはいけないのです。
神様が素晴らしいお方なので、たとえ大人であっても、神様の前に幼子のようになり、
神様から全てのものを頂いていくのです。
 
聖書の中に、ひとりの女が、高価なナルドの香油の入ったつぼを割り、
イエス様の頭に注いだところが出てきます(マルコ14:3)。
そのような彼女に対し、「何のためにそんな無駄なことをするのか。」と憤慨して言った人々もいましたが、
自分に死ぬということは、そのような犠牲を伴うものです。
いのちを得るためには、「死ぬ」というのがポイントなのです。
お金の欲に死んでささげる恵みに開かれた人は、経済的な祝福に満たされます。
自分の肉欲に死んだ人は、きよめの祝福を頂き、きよい器として神様に用いられます。
 
サウロは、教会やクリスチャンを迫害していました。
しかし、ステパノが殉教した後、ダマスコの近くまで来た時、彼はイエス様の御声を聞いたのです。
彼は後に回心し、パウロという名前になりました(使徒13:9)。
ステパノの死がなければ、パウロの回心はなかったのです。
それと同様に、もし、イエス様の十字架での死がなければ、私たちの救いはなかったのです。
 
 
イエス様は神の御子であられたのにも関わらず、一粒の麦となられました。
私たちも、一粒の麦のような小さな者、あるかないか分からないような者です。
これがそのままなら、何も起こらないのです。
その一粒の麦が、良い地に落ちて、死ぬのなら、豊かな実を結びます。
私たちが砕かれて落ちるのは、イエス・キリストの所です。
イエス様が砕かれたように、私たちも砕かれていくのです。
死んだら、「生きる」のです。豊かな実を結ぶのです。
自分自身に死んで、豊かな実を結ぶ者とならせて頂きましょう。