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30/12/2008 「主の祈り」を通して マタイ 6:9-15天にいますわれらの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。
私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
(国と力と栄は、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。)
この「主の祈り」を見ると、まず、最初に祈ることは、
神様の御名があがめられることであることを教えられます。
人間の頑張りに目を留めるのではなく、いつも神様の栄光が与えられるように祈るのです。
そして、どんなことでも感謝をささげていくのです。
主は、その中で素晴らしいことを成して下さいます。
二番目に求めることは、「御国が来ますように」ということです。
神の国には、義と平和と聖霊による喜びがあるのです(ローマ14:17)。
この世がもたらす喜びとは、質が違うのです。
うまくいかなくても、問題があっても、変わらない、神様が与えて下さる喜びなのです。
三番目に求めることは、御心が行なわれるようにということです。
御心を行なうというのは、「聖くなること」(テサロニケⅠ 4:3)、
それから「真理を知ること」(テモテⅠ 2:4)です。
また律法は、マタイ22:36-40にあるとおり、神様を愛することと、人を愛することの
二つに集約できます。
「聖くなる」というのは、他人をさばいたり、自分を苦しめたりすることではありません。
神様の近くにいる人が「聖い人」なのです。
汚れても、いつもイエス様の近くにいて、きよめてもらう。これが聖い人の歩みです。
四番目に「日ごとの糧を与えてください」とあります。
神様は、私たちの必要を満たして下さるお方です。
しかし、生活の必要のために祈るのは、四番目でいいということが書かれています。
また、第一の糧は御言葉であり、
その次が、いのちのパン、食物であることを忘れてはいけません。
五番目に、「救いと赦し」です。
赦されるということは、悔い改めるということです。
そして、私たちも人々を赦し、赦せない人を赦していくのです。
六番目に求めることは、「悪からの救い」です。
人間は弱いので、どのような試練も耐えられるというわけにはいきません。
試みにあわせないで、脱出の道を教えて下さいと、低くなって祈り求めていくのです。
そして七番目。国と力と栄は、とこしえにあなたのもの。
すなわち、すべての栄光は、神様のものなのです。
この社会をつくられたのも、神様です。
私たちは神様に根ざし、しっかりとつながる必要があるのです。
24/12/2008 この方こそ主キリストです ルカ 2:8-14きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。
この方こそ主キリストです。 ある学校で、先生が生徒たちに言いました。
「100円で、この教室いっぱいになるものを買ってきなさい。」
多くの生徒たちは、そんなの無理だと言いましたが、
一人の女子生徒がろうそくを買ってきました。
そして、ろうそくに火をつけ、部屋の電気を消したのです。
すると、部屋の隅々にまでろうそくの光で満ち溢れたというのです。
イエス・キリストは、この話でいう、ろうそくのようなお方なのです。
私たちの人生を、光で満たして下さるお方なのです。
ここの聖書箇所を見る時に、私たちは、イエス・キリストについて5つのことを知ることができます。
一番目は、イエス・キリストを信じて歩む時に、「恐れることはない。」ということです。(9-10節) 二番目は、「素晴らしい喜びの知らせ」を与えて下さるお方であるということです。(10節) 三番目は、「一人ひとりに与えられている、神様の恵み」です。 四番目は、イエス・キリストは「救い主」であるということです。(11節) 五番目としては、「しるし~プレゼント を与えて下さる方」だということです。 イエス・キリストを救い主として、心にお迎えして、 16/12/2008 イエス・キリストは、慰め主、癒し主、救い主 イザヤ 53:1-6私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に
向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。 イザヤは、イエス・キリストがお生まれになる700年も前に、救い主の誕生を預言していました。
しかし、それは当時としては、到底信じることができないようなものでした。
しかし、イエス・キリストは、それから700年経って、預言どおりに
この地上にお生まれになってくださったのです。
イエス・キリストがお生まれになった場所は、馬小屋でした。
そこにいたのは、マリヤとヨセフとイエス様の3人だけでした。
はじめてのクリスマス。それは、人目につかない、馬小屋という場所での、
3人だけのクリスマスだったのです。
イエス・キリストは、ここで預言されているとおり、人々にさげすまれ、のけ者にされました。
完全な人でしたが、病気を知り、苦しみを知っておられるお方でした。
神の御子であるのにも関わらず、大工の息子として生まれ、
30歳までは父の仕事の手伝いをされました。
そして最後は、十字架に架かられました。
その時、3時間、太陽も光を失ったというのです。
父なる神様は、イエス様を見捨てられました。
イエス・キリストが十字架に架かられたのは、私たちの罪のためです。
このことを通しても、私たちは、罪がどんなに恐ろしいものであるかを知らなければならないのです。
人を妬んだり、悪く思ったりすること。その他、神様に焦点が合っていないことは、すべて「罪」なのです。
罪とは、「的はずれ」という意味でもあります。
神様に喜ばれないこと、人々が嫌がること、これらはみな罪です。
また、愛がないというのも罪です。
その罪は、イエス・キリストの十字架の血潮によって赦され、きよめられるのです。
私たちは、毎日毎日、イエス・キリストの血潮によってきよめられなければならないのです。
いつも悔い改めて、方向を変えさせて頂き、新しい歩みをさせて頂くのです。
カナダでの出来事です。
一人のお父さんが、強盗をして刑務所に入りました。
娘は、お父さんにとても会いたがっていました。
しかし、お父さんに渡すプレゼントを買うお金がありません。
そこで彼女は、自分の長い髪の毛を切って、それをきれいに編んで、プレゼントとしたのです。
そして、手紙を添えて守衛さんに渡したのです。
お父さんは、家庭も顧みないような人でしたが、娘からのプレゼントを受け取り、手紙を読んだ時、
泣き崩れ、涙をもって悔い改めたというのです。
娘の髪の毛は、娘の愛そのものだったのです。。
イエス・キリストのいのち。
これこそが、クリスマスの一番のプレゼントです。
心の真ん中にイエス・キリストをお迎えした時、
慰めが与えられ、癒しが与えられ、そして救いが与えられるのです。
09/12/2008 失われた人を捜して救うために来られた ルカ 19:1-10イエスは、彼に言われた。
「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
イエス様は、30歳までは、父の大工の仕事を手伝っていました。
その後、イエス様が伝道された期間は、わずか3年半でした。
その3年半の間、イエス様は一日たりとも無駄なことはなされませんでした。
ここで登場するザアカイは、取税人のリーダーであり、金持ちでした。
大きな家に住み、ぜいたくに暮らしていました。
しかし、人々に嫌われていたのです。
「人の気持ちも分からない。お前なんか、血も涙もない。」…きっと、そうつぶやかれていたことでしょう。
でも、その日イエス様は、このザアカイに焦点を当てて、ザアカイに会うためにエリコの町に入ったのです。
イエス様が来られると、人々はイエス様をひと目見ようと、次々と大通りに出てきました。
しかし、背の低かったザアカイは、人垣に囲まれて、イエス様を見ることができないのです。
「どんなことがあっても、イエス様に会いたい。」
…そう思ったら、ある時は常識を捨てたり、自分自身を捨てたりしなければならないのです。
ザアカイも、そのような気持ちでした。
彼は、イエス様を見たいがために、木に登ったのです。
その時ちょうど、イエス様は木の下にやってきました。
そして、彼に言いました。
「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
自分を義人(正しい人)だと思い込んでいたザアカイも、イエス様の呼びかけに喜んで降りてきて、
イエス様をお迎えしたのです。
そして、自分の財産の半分を貧しい人たちに施し、
また、自分がだまし取った物は、四倍にして返すと宣言されたのです。
そこで、イエス様は言われました。「きょう、救いがこの家に来ました。」
イエス様は今日も、罪人の私たちの所に来て下さり、救いをもたらして下さるお方です。
私たちを、愛によって溶かして下さるお方です。
ザアカイは「失われた人」だったのです。
彼は、神様の恵みを失っていました。
今は、色々なものを失う時代だと言われています。
多くの人がリストラされ、仕事を失っている時代です。
「どうぞ、一人ひとりを守って、みんなから仕事を取らないで下さい。」と祈らざるを得ないのです。
しかし、それでもどうしようもない状況にあるのなら…。
「その人に福音を伝える」それしかないのです。
すべての人々に福音が伝えられ、イエス様のいのちが与えられる。
失われた人が、救いに導かれる。これこそが、クリスマスの恵みなのです。 01/12/2008 彼らの救い ローマ 10:1兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、
彼らの救われることです。 パウロの関心は、お金が儲かるとか、出世することや有名になることといった、
この世での成功ではありませんでした。
パウロの関心は、人々の救われることにあったのです。
パウロの唯一の関心は、「いのち」そのものにありました。
パウロの人々に対する情熱は、使徒の働きの中に書かれています。
「私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を
果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」 (使徒20:24)
とあるとおりです。
パウロは福音を伝え、多くの人々がイエス・キリストを信じ、いのちを得る大きな恵みにあずかったのです。
今、皆さんの関心は、どこにあるのでしょうか。 自分に関すること、自分の家庭のこと、自分の仕事のこと…、 しかし、ある人はこう言うでしょう。 パウロは、最初、外に目が向かないで、内側ばかり目が向いていました。 人々は、福音を聞くことによって救われるのです。 (HCCカンファレンス礼拝での榊山清志先生のメッセージより) |
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