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27/12/2007

馬小屋で生まれて下さった救い主    ルカ2:1-12

 
 
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。
この方こそ主キリストです。
あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。
これが、あなたがたのためのしるしです。
 
 
皆さんにとって、一番の宝物は何でしょうか。
お金でしょうか、家でしょうか、車でしょうか、子どもでしょうか。
その、一番大切なものを、誰かにあげることはできるでしょうか。
神様は私たちに、一番大切なものをプレゼントして下さいました。
それは、たった一人の御子である、イエス・キリストなのです。
 
イエス・キリストは、私たちの全ての罪を負って、十字架につけられました。
むち打たれ、いばらの冠をかぶせられ、馬鹿にされ、罵られたのです。
イエス・キリストがこの世に来られた理由は、私たちの罪のために死ぬことでした。
 
イエス・キリストがお生まれになった時、宿屋はありませんでした。
人間の泊まる宿屋はどこもいっぱいで、馬小屋に通されたのです。
私たちは、自分がどこに行ったらよいのか分からなくなる時があります。
将来が心配になることもあります。
馬小屋のような、汚いところを通らなければならないこともあるでしょう。
イエス・キリストは、私たちのつらい気持ち、悲しい気持ちも全部分かって下さるお方なのです。
 
一人ぼっちで、さびしさをおぼえている方は、いらっしゃらないでしょうか。
イエス・キリストにも、友達はいませんでした。
しかし、私たちのために救い主として来て下さり、私たちの友となって下さいました。
 
今日、皆さんを愛しておられ、皆さんの全ての心を知っておられるお方がいます。
それは、馬小屋で生まれて下さったイエス・キリストです。
今日、皆さんは、イエス・キリストに愛されているのです。
 
「恐れることはありません。」…神様は、そのように語って下さっています。
私たちは、神様に叫ぶことができるのです。
イエス・キリストを信じて歩む中で、私たちは、全ての罪、病、呪いからも解放されるのです。
パスポートがあれば外国に行くことができるように、
イエス・キリストを信じることで、私たちは天国に行くことができるのです。
 
あなたには、夢がありますか。
イエス・キリストとともに、夢を叶えていきましょう。
それは、「自分が頑張って築いていく、自分の夢」…ではなく、
「神様が与えて下さる夢」なのです。
2008年、さらに素晴らしい年になりますよう、ビジョンを持って、祈って取り組んでいきましょう。
18/12/2007

その名はイエス    マタイ1:18-22

 
 
マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。
 
 
マリヤは、男性との関係を持たない中で、自分の身に、子が宿りました。
人間的な力ではなく、神様の力によって、聖霊によって身重になったのです。
そして、イエス・キリストがお生まれになりました。
 
救い主イエス・キリストを与えて下さった神様は、この大自然を造られ、
様々な生き物、私たち一人ひとりをもお造りになりました。
私たちは、神様が造られた大宇宙の中で、生かされているのです。
神様は今も生きておられるのです。
私たちの人生の中で、神様が関わりを持っておられることが分かると、
神様から与えられた全てのものを大事にしようと考えます。
そして、全てを神様に明け渡して生きていこうという決心が与えられるのです。
 
一方、夫のヨセフは、「何でこんなことが…。」と苦しみました。
それも、そのはずです。
自分の妻が、自分と関係を持たない中で妊娠したのですから。
「自分に隠れて、他の男と関係を持ったのでは…。」…そのように疑って、マリヤを問い詰めることもできたでしょう。
しかし、ヨセフは正しい人でした。彼は、神様の愛の中に生きてきた人でした。
彼は全て神様に拠り頼んでいたので、内密に去らせようとし、決してマリヤをさらし者にはしませんでした。
苦しみの中でも、神様は解決を与えて下さるのです。イエス・キリストにこそ、解決があるのです。
 
イエス様は、突然に現われたのでも、偶然に現われたのでもありません。
イエス様の誕生の約700年前にはもう、
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。」(イザヤ9:6)と、
イエス様の誕生が預言されていたのです。
また、イエス様は、何のためにお生まれになって下さったのでしょうか。
それは、人々の罪のために、それを負って十字架に架かるために、
罪からの救い主としてお生まれになって下さったのです。
 
 
イエス様には、罪の種が入っていません。
創世記3章にあるように、私たちには、アダムの時代に、罪の種が入ってしまいました。
私たちは、その『アダムの血』を受け継いだ、罪の人なのです。
罪人を救うことができるのは、罪のない人です。
だから、救い主イエス・キリストは、『アダムの血』が入っていない状態で、
すなわちマリヤが処女の状態で、聖霊の力によってお生まれになる必要があったのです。
そうでなければ、救い主となることはできなかったのです。
 
私たちの罪からの救い主…その名は「イエス」です。
イエス様こそが、すべての罪から、苦しみから、のろいから解放して下さるお方なのです。
11/12/2007

選ばれるはずではなかった人が…    マタイ1:1-6

 
 
アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。
 
 
新約聖書の最初のこの箇所、実は4人の女性が出てくるのです。
ユダヤの文化では、女性は数の中に入れられない者でした。
5つのパンと2匹の魚をイエス様のところに持っていった時、人々が皆食べて満腹になることができた、
あの有名な箇所でも、「食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった(マタイ14:21)。」
とあるように、女性は数に入れられていませんでした。
 
 
しかし、この系図の中には、4人の女性が入っています。
しかも、その中のタマルは不倫の女性であり、ラハブは遊女でした。
ルツはモアブ人すなわち異邦人であり、ウリヤの妻(バト・シェバ)は夫がいない間に姦淫をしてしまった女性です。
この4人の女性たちは皆、罪人だったり、イスラエル民族でなかったりという具合に、
本来であれば、神様に選ばれなかった人たちなのです。
 
福音は、英語でGood Newsといいます。
福音の中には、罪の赦しが一杯入っています。
イエス・キリストは、私たちのすべての罪や病、呪い、痛みなどを負って下さり、十字架に架かり、
三日目によみがえって下さり、今も私たちと共にいて下さるのです。
イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちのすべての罪は赦され、
イエス・キリストの永遠のいのちを頂くことができるのです。
 
タマルにしても、ラハブにしても、本当は神様に呼ばれない、汚い者でした。
しかし、神を信じる信仰によって、祝福の系図の中に入ることができたのです。
これは、大きな希望、素晴らしい希望です。
私たちも同じように、アブラハムの子孫になることができるのです。
この系図の中に私たちも加えられる…これは、なんと素晴らしい恵みではないでしょうか。
 
「イエス」とは「救い主」という意味であり、「キリスト」とは「油注がれた者」という意味です。
イエス様は、聖霊によってこの世に来られました。
神の力によって、イエス様は来られたのです。
イエス様は王の王であったのにも関わらず、すべての栄光を捨て去って、馬小屋にお生まれになり、
飼い葉おけ(餌を置いておく所)に寝かされました。
餌というのは、「いけにえ」ということを意味します。
イエス様は、人々の罪のために、「いけにえ」になったのです。
尊い血を流して下さったことにより、私たちは罪赦されて救われたのです。
 
私たちの人生には、たくさんの痛みや苦しみがあります。
しかし、イエス様に解決があるのです。
イエス様を信じたら、新しい力が与えられるのです。
「私は神様に愛されている!」と毎日宣言しながら、大きなビジョンを持って歩む者とならせて頂きましょう。
04/12/2007

恵みの下にある  ローマ6:14

 
 
というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、
あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。
 
 
私たちは元々律法の下に置かれていた者でしたが、
イエス・キリストを信じてからは、恵みの下に置かれる者となりました。
律法の束縛の中にあると、「これをしてはいけない。」とか「これをしなければならない。」という考えに縛られ、
苦しまなければならないのです。
自分はダメだとか、自分はできないという具合に縛られてしまうのです。
しかし、イエス・キリストの恵みは、この律法の束縛から、恵みの下に生きる者と変えられるのです。
 
 
恵みの下にあるということは、いつも「感謝します。」「ありがとう。」という気持ちに溢れ、
イエス様がいつも最善をして下さることを感謝し、その豊かさに溢れる者となることができるのです。
 
聖書は私たちに、素晴らしい恵みを語っています。
この律法に「死ぬこと」、そしてイエス・キリストと共に生きる恵みを教えているのです。
ローマ6:4では、「キリストとともに葬られた。」と書かれ、
ガラテヤ2:20では、「キリストと共に十字架につけられた」と書かれています。
私たちがキリストによって新たないのちを得るためには、「死ぬ」ということが必要なのです。
イエス・キリストを信じる私たちは、すでに「死んだ」存在なのです。
死んだ者を倒すことはできません。
 
私たちが完全に死んでいたらよいのですが、死にきれていないために、苦しむのです。
一つの例を紹介します。
あるカエルが空を飛びたいと考えた時、そのカエルにはよいひらめきがありました。
鳥に棒を持ってもらい、カエルはそれをくわえて、空を飛ぼうというのです。
ついにカエルは、空を飛ぶことができました。
下で見ている人は、「カエルが飛んでいる。凄いな。誰だろう、この知恵を授けたのは。」と言いました。
カエルは、「私だ!」と言いたかったのですが、口を離すと、地面に落ちてしまうため、言うことができません。
しかし、とうとうカエルは「私だ!」と言ってしまったため、地面に落ちて死んでしまいました。
 
 
私たちも、何か自分がやったかのように高慢になってしまうことはないでしょうか。
また、「自分なんかダメだ」と落ち込んでしまうことはないでしょうか。
これらは、自分が死にきれていない状況なのです。
私たちにとって大切なのは、律法に死ぬこと、そしてイエス・キリストと共に歩み始めることです(ローマ7:4)。
イエス様は花婿、私たちは花嫁です。
イエス様は、私たちを導いて下さる、そして恵みと愛に富んでいる花婿なのです。
私たちがその恵みの中に生きるとき、主が最善をして下さる、すべてを益にして下さると信じて、
感謝に溢れて歩むことができるのです。
イエス様との「結婚生活」を楽しむ、その恵みの中に生きる者とならせて頂きましょう。

(HCCカンファレンス礼拝での榊山清志先生のメッセージより)