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28/12/2006

馬小屋も十字架も逃げなかったイエス様  ルカ2:1-20

 
 
マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。
それで、布にくるんで、飼い葉おけに寝かせた。
宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
 
 
 
イエス様がお生まれになる時…、
住民登録のためにたどり着いたベツレヘムでは、宿はいっぱいでした。
多くの宿屋の主人は、部屋がないと言って断ってしまいました。
しかし、ある宿屋の主人は、部屋は他の宿屋と同様にいっぱいだったのですが、
馬小屋でもよければと、マリヤとヨセフを迎え入れました。
馬小屋といっても、岩を切ったような洞窟のような所だったといわれています。
 
イエス様は、どこにでも来て下さるお方です。
私たちがもし、馬小屋のような暗くて汚い心であっても、
そのままの心でイエス様をお迎えすればよいのです。
その時、神様は「わたしを迎えなさい。」と招いて下さるのです。
人生の中に主をお迎えして、神様とともに歩む時、
私たちの人生の中に神様の光が差し込むのです。
 
 
皆さんにとって、2006年はどのような一年だったでしょうか。
この一年間の間で、色々なことを経験されたでしょう。
時には苦しいことも、悲しいこともあったでしょう。
 
 
どのような状況の中であっても、イエス様は決して逃げませんでした。
イエス様は馬小屋でお生まれになり、また最期は、
私たちの罪のために十字架にかかって死んで下さいました。
イエス様は、馬小屋も十字架も逃げなかったのです。
どんなに砕かれる出来事も逃げなかったので、私たちが救われたのです。
 
 
また、救い主は、羊飼いたちに現れて下さいました。
羊飼いは、当時、とても身分の低い職業で、
彼らには住所もありませんでした。
そのような羊飼いたちに救い主が現れて下さったことは、
私たちにとって、大きな希望なのです。
 
 
生活のすべての中で主をお迎えして、祝福を頂く者とならせていただきましょう。
 
22/12/2006

光が与えられた  イザヤ9:1-7

 
 
やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。
死の影の地に住んでいた者たちの上に
光が照った。
 
 
 
私たちの人生の中で、神様が介入して下さったことは、
大きな恵みなのです。
神様は光なるお方で、ことば一つで光をお与えになったのです。
この「光」は、この世を照らすだけではなく、
私たちの心の中をも照らすことができるのです。
 
馬小屋は、暗くて臭くて、汚い所です。
そのような馬小屋で、救い主であられるイエス様はお生まれになりました。
掃き清められた所ではなく、そのままの家畜小屋でお生まれになったのです。
私たちの心が、馬小屋のように暗くて汚い状況であっても、
イエス様を心の中にお迎えする時に、光が与えられ、輝きが与えられるのです。
 
イエス様は、私たちの人生を、全く新しくして下さるお方です。
イエス・キリストこそ、私たちの光となって下さるお方です。
 
皆さんには、家族や友人など、色々な人間関係があるでしょう。
様々な人間関係の中で、誰にも心を出せない、
心をさらけ出せないことは、どんなに辛いことでしょう。
しかし神様は、私たちが全部心をさらけ出しても、今までの恥をさらけ出しても、
それを受けとめて下さり、全部赦して下さるお方なのです。
あなたのことを全部分かって下さり、全部赦して下さる・・・
この神様の愛に触れた時、大きな喜びと、大きな愛を感じることができるのです。


これは、私たちの努力や頑張りでできることではありません。
神様が導いて下さるのです。
私たちを通して、罪のない方であるイエス様をこの地上に贈って下さり、
私たちの罪のために十字架にまで架かって下さったのです。
このイエス様を信じ、心にお迎えして歩む者とならせて頂きましょう。

 
16/12/2006

信仰による人生  ルカ1:37

 

神にとって不可能なことは一つもありません。
 
 
「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。
見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、
その名を『インマヌエル』と名づける。
この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るころまで、
凝乳と蜂蜜を食べる。」 (イザヤ書7章14-15節)
 
これはイエス・キリストがお生まれになる700年前に、
預言者イザヤによってなされた預言です。
 
 
700年も前にイザヤは、救い主が生まれることを預言されました。
この、救い主なるイエス・キリストを信じ、その信仰によって歩む人生は
何と幸いなことでしょう。
 
聖書の中にも、様々な人物が信仰によって神とともに歩み、
祝福を頂いていきました。
ヨルダン川を渡っていったヨシュアもそうですし、
わが子をささげていったアブラハムも、紅海を渡っていったモーセもそうです。
まだまだ、他にも沢山の人たちがいます。
 
ヨシュアが渡ったヨルダン川は、とても流れが急で、
常識では渡ることができないのです。
しかし、ヨシュアは信仰によって成し遂げました。
 
 
私たちは様々な人生の中で、それぞれの"ヨルダン川"を渡る場面があるでしょう。
これは、自分の力ではできません。
主により頼み、信仰による歩みをしていくことが必要なのです。
 
毎日毎日、神様は奇跡を与えて下さいます。
神様は御子イエス・キリストを地上に贈って下さったほど、
私たちを愛して下さるお方なのです。
そして、私たちを心の底から愛して下さるお方なのです。
 
今日、私たち一人ひとりに、主は語り掛けてくださっています。
「神にとって不可能なことは一つもない。」
この御言葉を握り締めて、生活するすべての事に関して、
信仰を働かせて、祝福を頂く者とならせていただきましょう。
 
08/12/2006

イエス・キリストの系図  マタイ1:1-6

 
 
新約聖書の最初にある、マタイの福音書では、
「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。…」と始まり、
その後、系図が延々と書かれています。
6節までの間に、なんと女性が4人出てくるのです。
しかもその女性たちはみな、罪深い者たちでした。
 
タマルという女性は、舅(しゅうと)と姦淫を犯しました(創世記38章)。
ラハブという女性は、遊女でした。
またルツは、ユダヤ人ではなく、モアブ人でした。
もう一人の女性、ウリヤの妻(あえてバテ・シェバとは書かれなかった)ですが、
彼女も、姦淫や殺人に関わるという罪の中を歩みました。
イエス様は、このような罪深い人間の系図の中に入れられたのです。
 
これらの女性たちを見ると、誰が見ても、"系図の汚点"のように感じられるでしょう。
しかし、このことを通してでも、「罪人こそ救われる」ということが分かるのです。
 
 
私たちは、明らかに罪深いと分かる人間には、
なかなか目を向けることができないでいるのではないでしょうか。
そのような人には、なかなか伝道できないでいるのではないでしょうか。
しかし本当は、そういう人たちにこそ、目を向けていかなければならないのです。
 
"イエス"とは"罪から救う"という意味であり、
"キリスト"とは"油注がれた者"という意味です。
イエス・キリストを信じることによって、私たちは神から油を注がれて、罪から救われるのです。


日本人の中に蔓延しているのは、「人を信じることができない罪」ではないでしょうか。
そのことで多くの人たちが傷ついています。
しかし、イエス・キリストは信じて間違いのない方、
どんな状況の中でも共にいて下さり、弁護して下さるお方なのです。
このお方を信じること・・・これこそが出発点なのです。
いつでもイエス様により頼み、そしてこのイエス様を宣べ伝え、なおも祝福を頂く者とならせて頂きましょう。