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27/11/2006 他人をさばく人よ ローマ 2:1ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。
あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。
さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。
自分を正しいとしている人…。
その人は、自分の過ちについては寛大であるが、
他人の過ちについては敏感で、そしてそれを大きく見る傾向があるのです。
クリスチャン生活を長くしていると、意外とそうなりやすく、
自分を正しい者とし、さばく心をもちやすいのです。
自分がどういうところから救われたのかが分からなくなり、
最初から自分が素晴らしかったかのように錯覚してしまいます。
そのような心の状態の中で御言葉が語られても、
「今日の御言葉は、あの人にぴったりだ。」などと考え、
自分に当てはめようとしなくなってしまうのです。
ですから、礼拝が終わっても何の成長もなく、他人のことばかりが気になってしまうのです。
教会に熱心に通っていながら愚かしくなってしまうのは、
このように自分は大丈夫だと思い込んでしまい、他人を裁き、
自分自身に御言葉を適用しなくなってしまうことです。
教会に来て大切なことは、御言葉に触れられる中で、生活が変わり、考え方が変わり、
大きな喜びを心に持ち、イエス様の恵みをいつも持ちながら感謝して歩んでいくことです。
飢え渇きを持って御言葉を慕い求めることは、幸いなことです。
御言葉は、自分を変えるためのもの、自分を新しくするためのものなのです。
御言葉を聞くたびに自分の心が刺されて、主が私に語っておられる・・・これが祝福なのです。
パリサイ人の祈りと、取税人の祈り。
主は、自分を義としたパリサイ人ではなく、低くなった取税人の祈りを聞かれました。
主の前に低くなり、自分自身を砕き、御言葉をいつでも自分自身に適用して、
その恵みを頂く者とならせていただきましょう。 18/11/2006 聖霊の宮 コリントⅠ 6:19-20あなたがたのからだは、
あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、
あなたがたはもはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。
ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。
イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けると、
その賜物(プレゼント)として、聖霊が宿って下さいます。
たとえ一人ぼっちで淋しい時であっても、イエス・キリストが共に生活して下さるのです。
そして、罪について、裁きについて教えて下さり、
何が正しいことであるのかを、教えて下さるのです。
いつもイエス・キリストが心の王座に座って下さると、
喜びや平安で満たされます。
しかし、「自分」というものが心の王座を占めていると、
自己中心や妬み、憎しみ、怒りなどが生じます。
聖霊の宮に、このようなものを入れてしまうと、聖霊様が働かれなくなってしまいます。
イエス・キリストを信じ、バプテスマを受けても、喜びや平安がないのは、
このような自分中心の歩みをしているからだと聖書は言っています。
肉体の疲れは、休めば癒されます。
しかし、心の疲れは、休んでも、また目が覚めればそのことが気にかかってきます。
聖書には、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)とあります。
そのような心の疲れも癒し、平安を与え、新しくして下さる…これが聖霊の働きなのです。
今日、聖霊の満たしが必要だと思われたら、「聖霊で満たして下さい!」と祈り求めましょう。
また、悔い改めが必要であるのならば、悔い改めましょう。
私たち一人ひとりが、「聖霊の宮」であるのですから。 10/11/2006 夕暮れには涙が宿っても・・・ 詩篇30:4-6聖徒たちよ。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。
まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。 夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。 これは、ダビデが家をささげる時に歌った賛歌です。
ここでダビデは、夕暮れに涙が宿るようなことがあっても、
朝には喜びが湧き上がってくるのだと歌われました。
様々な問題や、不安、心配、恐れなどがやってくることがあるでしょう。
しかし、どのような状況の中でも、必ず朝はやってくるのです。
涙を流した分だけ、喜びや叫びが沸きあがってくるのです。
これが信仰生活です。
クリスチャンは、毎日毎日、主に出会うことが出来る恵みがあります。
問題を通して神様に出会うことができ、イエス様に再会することができるのです。
クリスチャンは、神様から見たら、特別扱いされているのです(詩4:3)。
しかし、それは甘やかされるということではなく、時には特別に訓戒され、
神様からの取り扱いを受けることもあるのです。
この箇所で書かれているように、神の御怒りというものもありますが、
それは私たちを懲らしめるためではなく、このことを通して、
私たちがなおも神様に近づくように、つながるようにと導いて下さっているのです。
主は、私たちを正しく導いて下さるお方です。
自分勝手な道を歩むのではなく、この、神様の近くにいることが、
幸いなことなのです(詩73:28)。
この賛歌を歌ったダビデも、
「私はいつも、私の前に主を置いた。」(詩16:8)、
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」(詩23:1)
というように、主が共にいて下さる幸いをいつも告白されていました。
栄えると高ぶってしまい、そのことで転落してしまう人もいます。
涙の宿るような中でも、栄えている時でも、いつでも主につながり、
恵みを分かち合う者とならせて頂きましょう。 03/11/2006 心の死から溢れるいのちへ ローマ5:5この希望は失望に終わることがありません。
なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、
神の愛が私たちの心に注がれているからです。
最近、何と多くの人たちが自殺していることでしょう。
特に若い人たちの自殺の理由として、「いじめ」が挙げられています。
先生がいじめの火種になっているという話も聞き、心が痛みます。
心が死んでいる子どもたちが多くなっているという話を聞きます。
しかし、私たちが少しでもその子達に関心を示す、そばにいてあげる、
それだけで回復することもできるのです。
また、自殺する人の半分以上は、家族関係がダメになっているのです。
その人の心が死ぬということは、つまり、人々との関係がダメになるということです。
「霊の死」は、永遠の霊、神様との関係と断絶してしまうことです。
霊が死ぬと、心が死ぬようになってしまいます。
お金もあり、全てがうまくいっているように見えるのにもかかわらず、
人生がむなしい、何のために生きているのか分からない
…これは、神様との関係が切れてしまって、霊が死んでしまっているのです。
「人はパンだけで生きるのではない。」
私たちは神様からのことば、一つ一つによって生かされているのです。
私たちの造り主、神様との関係を回復し、神の聖霊が宿るようになったら、
私たちは生き返るのです。
もうひとつの死は、肉体の死でしょう。
神様の愛の関係を回復したら、私たちの肉体も生き生きとすることができるのです。
救いとは、関係回復です。神様との愛が回復するようになると、
永遠のいのちを頂いて生きるようになることができるのです。
神の無限の愛が、溢れるばかりに私たちの心に注がれるようになります。
これこそが、救いなのです。
10月29日 卞 在昌先生のメッセージより |
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