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28/10/2009

弱さを誇る

 
 
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に
甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
(コリント 12:9-10)
 
 
 
この世の中は、強さを誇ることが多いでしょう。
スポーツ界を見ても、強い者や速い者に賞が与えられます。
しかし聖書は、自分自身を誇ることは無益なことだと教えているのです。
皆さんには、弱さや足りなさがあるでしょうか。
また、神様により頼まなければ生きていけない状況があるでしょうか。
もし、そのような状況であるなら、そのことが恵みであると
聖書は教えているのです。なぜなら、御言葉にあるように、
神様の力は「弱さのうちに完全に現われる」からです。
私たちは、弱い状況の中にあると「私は弱い」と、
あるいは病の中にあると「私は病気だ」という具合に、
現実の中で苦しみやすい者です。
でも聖書は、「弱い時こそ強い」と教えているのです。
 
 
この手紙を書かれたパウロは、肉体に一つのとげが与えられました。
他人から見た目には分かりませんが、パウロにしか分からない痛みがあったのです。
パウロは、そのとげがなくなるようにと三度も祈りました。
パウロが他の人のために祈る祈りには、神様はすべてこたえて下さいました。
しかし、パウロ自身のとげがなくなるようにという祈りには、
神様はこたえなかったのです。
神様からの答えは、「わたしの恵みは、あなたに十分である。」というものでした。
リビングバイブルを見ると「わたしは、あなたの病気をなおさない。
でも、わたしはあなたから離れない。」とあります。
パウロの体にとげが与えられたのも意味があることであって、
それは神様を忘れないために、高ぶることがないように与えられた
「とげ」だったのです。
 
 
神様は私たちの弱さを担って下さり、力となって下さるお方です。
ヘブル4:15-16には、
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。
罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、
試みに会われたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、
おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
とあります。
イエス様も、十字架という大きなとげを持ってこの地上に来られました。
様々な問題を通して、神様から目を離さないようにと、神様は導いておられるのです。
弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に「甘んじる」とありますが、
「甘んじる」というのは、「そのままにしておく」つまり「神様におゆだねする」
ということです。
パウロも、神様に全部ゆだねきっていった時、神の栄光があらわされる大祭司となったのです。
21/10/2009

私を強くしてくださる方によってどんなことでもできる

 
 
私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。
(ピリピ 4:13)

 
 
神様は私たちに力を与えてくださり、私たちを強めてくださるお方です。
イエス・キリストは、十字架に架かって死なれただけではなく、
三日目によみがえられました。
そして、聖霊として宿ってくださり、今も私たちとともにいて
助けて下さるお方です。
 
 
ピリピの人たちにこのような励ましの手紙を送ったパウロは、
かつてはサウロという名前でした。
キリストの弟子たちを迫害し続けていた彼は、ある日、
よみがえられたイエス・キリストに出会いました。
天からの光が照らされ、彼は地に倒れました。
そして、「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか。」という声を聞いたのです。
サウロの目は見えなくなり、アナニヤによって目が開かれる中で、
彼は、イエス・キリストの福音を伝える伝道者となったのです。
迫害する人から、今度は迫害される人になったのです。
ありとあらゆる人たちにイエス・キリストを宣べ伝える中で、
牢に入れられたり、ムチを打たれたりすることもありました。
 
 
私たちも、福音を伝える時に、家族や回りの人たちに迫害される時もあるでしょう。
しかし、そこで屈するのではなく、イエス・キリストを見上げて、
救いの奇跡を信じる者とならせていただくのです。
神様が、どんな状況の中でも満たして下さるのです。
まずは、今あるものをすべて感謝していくのです。
感謝したら感謝した分だけ、神様は恵みの扉を開いて下さるのです。
だから、どんなことでも感謝していくのです。
 
 
アメリカ・カリフォルニアにある教会のある牧師先生は、
韓国に伝道集会に出かけている時に、突然電話がありました。
それは、娘さんが病院に運ばれたという内容のものでした。
帰国して娘に会うと、彼女は一方の足が切断されていました。
牧師である父が泣き崩れていると、娘は
「私は、一方の足が切断されたけど、もう一方の足が残っているから、
そのことを感謝しましょう。」と言ったのです。
その時先生は立ち直ったのです。
 
 
ピリピ4:11で「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」と
パウロが語られたように、どんな中にあっても、祝福のカギを握る事ができ、
神様の力をもらうことができるのです。
信仰とは、あきらめないことです。
あきらめないことは、大きな力につながっていくのです。
希望がない時、真っ暗に見える時こそ、神様に拠り頼んでいくのです。
よみがえりのイエス・キリストがともに働いて下さるので、
あきらめないで祈り続けていくのです。
14/10/2009

認める幸い

 
 
私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、
また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。
(ローマ 15:14)

 
 
 
手紙の著者であるパウロは、ローマのクリスチャンたちを認めていることが、
ここで分かります。
善意にあふれ、知恵に満たされ、互いに訓戒し会うことができることを、
確信していると語っているのです。
もし認めていなかったら、ローマのクリスチャンたちのことが心配で、
不安で、任せておくことができないという具合になったでしょうが、
そうではなかったのです。
 
 
私たちの人生で、「認める」ということは大きな力になるのです。
逆に、認めてもらえないことで、力を失い、失望してしまう状況も沢山あるのです。
皆さんは今まで、「認められる」ということをどれだけ経験されてきたでしょうか。
また逆に、皆さんの口から、どれだけ人々を認めること、
人々を励ますことを口に出してきたでしょうか。
 
 
チャールズ・スポルジョンという、イギリスの生んだ世界的に有名な伝道者がいます。
彼は11歳の時、子供の説教大会で説教をし、そこで先生に
「あなたの説教は素晴らしかったですよ。大きくなったらきっと、
素晴らしい伝道者になるでしょう。」と言われたのです。
その言葉が、スポルジョン先生にとって、大きな力となっていったのです。
 
 
言葉は大切です。言葉で私たちは神様のことを伝え、また人々を認め、
人々を称賛することができるのです。
言葉で福音を語り、私たちを通して福音が伝わっていくのに、
私たちがその口を閉じるような者となってはならないのです。
また、愚痴を言ったり、「お前はダメだ」などとマイナスのことを言ったりするのではなく、
人々を認め、祝福する者とならせて頂くのです。
言葉でどれくらい、周りの人々を称賛しているでしょうか。
言葉による称賛は、物をあげるよりもはるかに大きなものがあるのです。
認められることで自信を持ち、力を持ち、前進することができるのです。
 
 
パウロはいつも人々を認め、励ましていました。
ですから、パウロを通して多くの弟子が生まれていきました。
言葉は、その人の生涯を全く新しく変える力を持っているのです。
学校で友達を認めているでしょうか。職場で同僚や上司を認めているでしょうか。
人々に対しても、いつも人々を認め、励ます言葉を出す者とならせて頂くのです。
(HCCカンファレンス礼拝での榊山清志先生のメッセージより)