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29/10/2008

罪人を救うために来られた主イエス  テモテⅠ 1:15

 
 
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、
そのまま受け入れるに値するものです。
私はその罪人のかしらです。
 
 
「私は使徒の中では最も小さい者」(Ⅰコリ15:9)と語られたパウロは、
その後「すべての聖徒たちのうちで一番小さい」(エペソ3:8)と自分のことを語るようになり、
ここではついに、「私は罪人のかしらです。」と告白されました。
 
かつては、律法をしっかり守っていた人物で、人間的にも優れていたヘブル人でした。
しかし、彼がダマスコの途上でイエス・キリストに出会った時、彼の心が変えられたのです。
かつてはイエス・キリストを迫害していたパウロでしたが、イエス・キリストを信じて歩む者と変えられました。
そして、「私はキリストの十字架だけを誇る」と告白するようになったのです。
 
イエス・キリストは、罪人を救うためにこの地上に来られました。
自分が罪人であることを認めている人が、救われるのです。
イエス・キリストを信じ受け入れると、新しく変わります。
ヨハネ1:12には、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、
神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあるように、
神の子どもとなり、天のお父さんの資産を受け継ぐことができるのです。
この世のどんな資産も、神様の資産と比べたら、比べものにならないのです。
神様とともに歩む人生は、どんなに素晴らしいことでしょう。
 
私たちがどんなに弱くても足りなくても、それは問題ではありません。
「神様助けて下さい。」「祝福して下さい。」「いやして下さい。」…このように願うなら、
神様は私たちの祈りにこたえて下さるお方なのです。
 
マタイの福音書1章には、アブラハムから始まってイエス・キリストの系図が書かれていますが、
その中には、タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻という四人の女性が出てきます。
彼女らは、遊女や異邦人でした。
このような家系を経て、イエス・キリストが生まれて来られたのです。
また、マタイ1:16には「キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。」とあります。
夫のヨセフなしで、マリヤからお生まれになったのです。
イエス・キリストはこのように、罪が入らない状態でお生まれになりました。
しかし、その罪なき人であるイエス・キリストが私たちの罪を負って下さったのです。
どんな罪も呪いも病も、イエス・キリストの名前によって解放されるのです。
「自分にはこんな汚いものがあった。」という方はいらっしゃらないでしょうか。
だからこそ、イエス・キリストが必要なのです。
イエス・キリストは私たちに介入して下さり、新しい歩みをさせて下さるお方です。
22/10/2008

失望しないで祈る        ルカ 18:1-8

 
 
いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、
イエスは彼らにたとえを話された。
 
 
ある村で、一人のクリスチャンの婦人がいました。
彼女はいつも、「神様どうか、主人を救いに導いて下さい。」と祈り続けていました。
しかし、彼女の夫は、教会をとても悪く言い、奥さんに暴力を振るう人でした。
それでも彼女が主人の救いのために祈り続けている中で、不思議なことが起こりました。
彼が畑仕事をしていると、「今日は、教会の集会に行け。」という声が聞こえてきたというのです。
何度も何度も聞こえてくるので、彼はとうとう集会に行ったのです。
その時に御言葉が入り、ご主人さんは救われました。
その後彼は、今までとは見違えるほど柔和な姿になり、その家庭で、家庭集会も行われるようになったのです。
 
祈りは、いのちそのものです。
クリスチャンから祈りを取られるということは、いのちを奪われるようなものです
私たちは、どのような状況であっても、失望しないで祈る、希望をもって祈る者とならせて頂くのです。
 
ここの聖書箇所では、たとえとして、ひとりのやもめが出てきます。
そのやもめは、裁判官のところにやってきては、「私の相手をさばいて、私を守ってください。」と
言い続けたのです。
この裁判官は、本来は、神を恐れず、人を人とも思わない方でした。
しかし、あまりにもひっきりなしにこのやもめがやって来て、うるさくてしかたがないので、
この女のために裁判をしてやることにしようと思うようになったのです。
このたとえを出しながら、こんなやもめの祈りがこたえられるのだから、
夜昼神を呼び求めているクリスチャンの祈りに対して、放っておかれるはずがないとイエス様は語られたのです。
 
祈りの中で、自分の考えや、自分の思いを加えるものではありません。
なぜなら、神様は、私たちの想像よりはるかに素晴らしいことを成して下さるからです。
自分の考えで神様を小さくとらえてしまう者にならないで、自分というものを明け渡して、
神様の素晴らしい計画が成されるようにと祈り求めていくのです。
「私が…」ではなく、神様が第一なのです。
「神の国とその義とを第一に求めなさい(マタイ6:33)。」と御言葉にあるとおりです。
神様に拠り頼む人は、必ず素晴らしい恵みを頂くことができるのです。
 
詩篇81篇10節にはこうあります。「あなたの口を大きくあけよ。わたしがそれをみたそう。」 
また、マタイの福音書7章7節にはこうあります。「求めなさい。そうすれば与えられます。
捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」 
信仰をもって祈る中で、約束のものを手に入れさせて頂きましょう。
忍耐強く祈り、前進させて頂きましょう。
14/10/2008

死んだら実を結ぶ        ヨハネ 12:24-26

 
 
まことに、まことに、あなたがたに告げます。
一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。
しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
 
 
聖書には、様々な逆説的なことが書いてあります。
「受けるよりも与えるほうが幸いである、」(使徒20:35) 
「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」(マルコ9:35)
…という具合にです。
今回の御言葉でも、「死んだら実を結ぶ」とあります。
 
「死ぬ」とはどういうことでしょうか。
イエス・キリストがこの世に来られた目的は、「死ぬため」でした。
十字架に架かって、私たちの罪を全部背負って死ぬということは、
イエス・キリストがこの地上でどうしてもしなければならなかったことなのです。
キリストのよみがえりの前には、「死」があったのです。
 
実を結ぶために、「自分」というものに死ぬのです。
それは、自分自身を砕くということ、神様にゆだねる・明け渡す・手放すということです。
いくら強い信仰を持っていても、自我が強くて自分自身を砕くことをしなかったら、開かれません。
 
ガラテヤ人への手紙2章20節には、こうあります。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、
私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」 
 
「自分」というモーターを止め、信仰によって生きていくのです。
自分自身がどんなに弱くても足らなくても、それは問題ではありません。
イエス・キリストを信じる信仰によって、よみがえりのいのちを頂くことができるからです。
人にはできないことが、神にはできるのです。
「神様のいのち」のモーターを回していくのです。
「自分」というものを手放して、主にゆだねていく。
その中で、神様が素晴らしい恵みを与えて下さいます。
様々な問題を通して、マイナスに見える出来事を通して、神様はプラスに変えて下さるのです。
素晴らしい恵みに変えて下さるのです。
これが、神によって歩む生活、つまり信仰生活です。
 
イエス・キリストは、十字架上で苦しまれる中でも、人を赦してきました。
クリスチャンこそ、人々を赦すことができ、人々を活かすことができるのです。
イエス・キリストが大きな愛をもって私たちを赦して下さったので、私たちも人々を赦し、人々を愛していくのです。
イエス・キリストは、33年間の生涯の中で、自分のために時間を使ったことはありませんでした。
人々を活かすため、癒すため、解放するためにすべてを費やしたのです。
私たちも実を結ぶために、何か自分のものを握りしめるのではなく、人々のために用いさせて頂くのです。
そして、自分というものを手放した時、そこから信仰生活が始まるのです。
07/10/2008

クリスチャンの特権と義務       箴言 3:1-12

 
 
わが子よ。わたしの教えを忘れるな。わたしの命令を心に留めよ。
そうすれば、あなたに長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる。
 
 
私たちはいつも聖書を読むたびに、神様に目を留め、
神様の命令を心に留める必要があるのです。
市民は、市民としての義務を果たさなければなりません。
国民は、国民としての義務を果たさなければなりません。
それと同じように、私たちクリスチャンは、神様の命令に心を留める義務があるのです。
 
しかし聖書は、義務だけではなく、すばらしい特権を頂くことができることも教えています。
私たちは、神様の恵みの中で、この地上では考えも及ばないほどの
すばらしい特権を頂くことができるのです。
 
クリスチャン生活は、神の恵みによって生きていく生活です。
私たちが何か特別に努力するとか、極めるとかいうものではありません。
神を信じる信仰の中に生き、その中で豊かにされていくのです。
 
4節には、「神と人との間に好意と聡明を得よ。」とあります。
神の前にも人の前にも謙遜であること、低くなる人は、好意を得ることができるのです。
そして、見るものに対しても聞くものに対しても、その中で聡明さを得ていく必要があるのです。
あらゆることに対し、このことが神から出ているのか、人から出ているのか、
悪魔からの挑戦であるのか、私たちは見分けなければならないのです。
私たちは砂の上に家を建てる者ではなく、岩の上(すなわち、イエス・キリストという土台の上)に
家を建てる者とならせて頂くのです。(マタイ7:24-27) 
 
 
5節にあるように、自分の悟りに頼るものではなく、いつでも
心を尽くして、神様に拠り頼む者とならせて頂くのです。
その中で神様は、「あなたの道をまっすぐにされる。」(6節)と約束しています。
どのような状況の中でも、まっすぐな道、迷わない道を与えて下さるのです。
出エジプト記の中で、モーセがイスラエルの民を連れて行った時、
本当は2週間で目的地に行けるところを、つぶやいたり文句を言ったりする中で、
40年もかかってしまいました。
時間がかかる仕事でも、祈る中で、短時間で終えることができるのです。
イスラエルの民の場合は、まさにその逆のケースでした。
 
マイナスに見えるような出来事に遭遇することはあるでしょうか。
そのような中でも、神様は、すべて恵みに、そしてプラスに変えて下さるのです。
また、見せかけの信仰生活ではなく、本当に神様とともに歩んでいくのです。
信仰を持ち、疑うことなく歩んでいくのです。
神に従う、聖書に従う中で、私たちは豊かな実を結ぶことができます。
いつも恵みに満たされ、喜びに満たされ、いつでも、どこにいても
イエス・キリストの恵みが現わされる者とならせて頂きましょう。