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27/01/2009

私たちはキリストにあって一つのからだです  ローマ12:4-5

 
 
一つのからだには多くの器官があって、
すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、
大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、
ひとりひとり互いに器官なのです。
 
 
 
「私は、教会にとって何の役にも立っていない。」
「何の存在感もない。」
などと考えている方は、いらっしゃらないでしょうか。
 
 
聖書は、私たちはキリストにあって一つのからだであり、互いに器官であることを教えています。
私たちのからだには、様々な器官があります。
目や手、足、その他、目に見えない内臓器官などもあります。
これらはみな、必要なものです。
足りなかったら、大変なことになってしまいます。
皆さんの存在もそのように大切で、必要な存在であるのです。
だから、どうかとどまらないで、自分を見つめないで、前進させて頂きましょう。
教会の体の一部として、ともに教会を建てあげさせて頂きましょう。
 
では、私たちはどのようにしたらよいのでしょうか。
まず一つは、教会のために、益になるように働くのです。
教会に必要なものを持ってきたり、作業や奉仕、教会のプログラムに参加したり、
様々なことがあるでしょう。
祈ることもそうです。ささげることもそうです。
教会の働きの中で、自分のできることを、その中でさせて頂くのです。
霊的な奉仕も必要です。
礼拝に参加すること、これも互いに励ましあう意味でも必要なことです。
祈祷会に参加することも、グループでの交わりも、大切なことです。
 
次に、奉仕のための力をどこに求めていったらよいのか。
教会の働きは霊的なものです。
人間的な力以上に、神様からの霊的な力を必要としています。
私たちの働きは、血肉のものではなくて、霊的な戦いであると聖書は言っています。
ですから、いつも主からの力を求めて、様々な働きの奉仕をさせて頂くのです。
また、様々なビジョンのためにも、伝道のためにも、
主からの力を求めて、すべての働きをさせて頂くのです。
 
また、賜物を与えていることも聖書は教えています。
イエス・キリストを信じて前進しようとする中で、神様は、素晴らしい賜物を与えて下さるのです。
預言(説教する)の賜物、
仕える(他の人を助ける)賜物、
教える賜物、
勧める賜物(慰め励ますという意味を持っている)、
分け与える賜物、
指導の賜物(平凡な人を有能な人に変える)、
あわれみ(他の人の重荷を背負う)の賜物、
…書き出したらキリがないほどたくさんの賜物が挙げられますが、
これらの賜物を主のために、教会のために使わせて頂くのです。
 
 
そして、愛によって奉仕をするのです。
その時に、人々が生きるようになり、神の業がなされるのです。
私たちは、キリストにあって、ひとつなのです。
そして、皆さんひとりひとりの存在は、なくてはならないものなのです。
 
(HCCカンファレンス礼拝での榊山清志先生のメッセージより)
21/01/2009

なぜ追い出せなかったのか    マタイ 17:18-19

 
 
そして、イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直った。
そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。
「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」
 
 
 
悪霊を追い出すことは、弟子たちにはできなかったのです。
しかし、イエス様にはできたのです。
なぜ、弟子たちにはできなかったのでしょうか。
 
自分で色々と頑張ってみたり、やろうとしたりすることが、日々の生活の中で沢山あることでしょう。
しかし、どんなに頑張ってみても解決できない問題があるのです。
「心の問題」「家庭の問題」「人間関係の問題」…・・・
なぜ、うまくいかないのかと悩んでいる人たちが沢山いるのです。
 
イエス様のところに連れてきた時に、子供は直り、悪霊は出て行ったのです。
イエス様のところに持ってきたら、できるのです。
すべての問題は、イエス様のところに持ってきたら、必ず解決できるのです。
シモン・ペテロは、夜通し働いても魚がとれない状況でしたが、
イエス様にお会いした時、状況が全く変わったのです。
二そうの舟が沈みそうなほどの大漁を見たのです(ルカ5:1-7)。
 
なすすべがなく、お手上げの状況であっても、心配は要らないのです。
主に向かい始めた時、解決があるのです。
その時、困難は、困難でなくなるのです。
主は、不可能を可能にして下さるお方なのです。
神様は、祈りに答えて下さらないお方ではありません。
私たちが取り組み始める時、主は、私たちを整え始めるのです。
そして、整えられた時、恵みを与えて下さるのです。
 
問題の中で、困難の中で、みじめさを味わう。それこそが、祝福の入り口なのです。
そのみじめさの中で、主に向かい始めていくのです。
祈ったことについて、主は本気になって考えて下さるお方なのです。
 
私たちにとって、無駄なものは一つもありません。
私たちが、自分の力で一生懸命やる中では、うまくいかないのです。
ちょうど、弟子たちには悪霊を追い出すことができなかったのと同じように…です。
もし、そのまま歩んでいくのであったら、いつもそこでとどまって、終わりなのです。
しかし、主に向かい始めた時、主は、私たちの理解を越えた、
はるかに素晴らしいことを成して下さるのです。
自分のみじめさを認め、その中で主に向かい始めていきましょう。
そして、主の素晴らしい御業を、沢山見る者とならせて頂きましょう。
 
(浜松教会主任牧師 榊山清志先生のメッセージより)
13/01/2009

カインとアベルのささげもの      創世記 4:1-7

 
 
ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持ってきた。
また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持ってきた。
主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。
だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。
 
 
 
兄のカインと、弟アベルは、アダムとエバから生まれました。
アダムとエバとは違い、彼らには、生まれた時から罪の種が入っていたのです。
やがてカインは土を耕す者になり、アベルは羊を飼う者となりました。
そして、それぞれささげ物をもって、礼拝をささげることになりました。
 
カインは、農作物をささげました。
アベルは、羊の初子の中から最良のものをささげました。
アベルのささげ物を神様は受け入れられたのですが、カインのささげ物は無視されたのです。
なぜ、アベルのささげ物だけが受け入れられたのでしょうか。
二人のささげ物の、どこが違っていたのでしょうか。
 
それは、ささげる心が違っていたのです。
カインのささげ物は、何でもいいという、まにあわせだったのです。
しかも、羊ではありませんでした。
当時、罪の赦しのために必要だったのは、動物の血でした。
アベルは、それを神様にささげました。
しかも砕かれた心をもって、一番良いものを選んでささげたのです。
 
私たちの、礼拝する姿勢、ささげる姿勢はどうでしょうか。
アベルのような心をもって神様のもとに行くのであれば、神様は豊かに祝福を与えて下さるのです。
日々の生活の中で、様々な状況があることでしょう。
みじめさの中にいても、辛さの中にいても、その中で心を裂き、神様に心をささげていくのです。
 
聖書の別の箇所に、パリサイ人と取税人の話があります(ルカ18:10-14)。
パリサイ人は、他人をさばく中で感謝をささげる、
言ってみれば、人の胸を叩きつけるという状態でしたが、
取税人は逆に、自分の胸を叩いて悔い改めたのです。
そして、本当に神様に向かって心を砕き、神様に受け入れられたのは取税人だったのです。
カインとアベルとの対比に、どこか似てはいないでしょうか。
 
「カイン」とは、「得る」という意味があります。
彼は、得ることに関心がありました。
しかし、神様が望んでおられることは、もらうことではなく、ささげることです。
礼拝も、賛美も、祈りも、ささげるものなのです。
また、「アベル」とは、「息」という意味があります。
アベルは、神様の息がかかった人だったのです。
私たちもアベルの姿にならい、いつも主に喜ばれる礼拝をささげる者とならせて頂きましょう。
一人ひとりのクリスチャンを通して、神様は働かれます。
私たちを通して、神様の栄光があらわされるように、祈って取り組む者とならせて頂きましょう。
 
07/01/2009

まことの礼拝者になる          ローマ 12:1

 
 
あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として
ささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
 
 
現在日本は、仕事を失う人が沢山いるという、大変な状況を迎えています。
しかし、それよりももっと悲惨な人生は、神様を見失う人生です。
そこには、何の益も、何の得もないのです。
私たちには、それぞれ肉親である親がいますが、それとともに、霊的な親がいます。
それは、まことの神、主なる神様です。
その方に、礼拝をささげていくのです。
日曜日だけが礼拝の日ではありません。
日曜礼拝は、よみがえられたイエス様を礼拝する、とても大切な時です。
しかし、それとともに、毎日毎日、賛美をささげ、祈りをささげ、
神様を礼拝していくことが大事なのです。
この一年、まことの礼拝者として、いつも、どんな時でも、礼拝をささげる者とならせて頂きましょう。
 
今、こんなみじめな状態で…。こんな状態では、神様の前には出られない…。
そのように思っている方は、いらっしゃらないでしょうか。
でも、そのような状態の中でも、そのまま神様の前に出させて頂くのです。
そして今度は、心を裂いていくのです。
心をかき乱されるような状況が、あるでしょうか。
そのような中で、そのまま心を出して、心から賛美をささげ、神様をほめたたえていくのです。
私たちがどのような状態であろうとも、神様は抱きかかえて下さるのです。
良い時も、悪く見える時も、神様を礼拝していくのです。
今の世の中が悪くても、世の中に目を向けるのではなく、神様を見上げ、神様を礼拝していくのです。
 
礼拝とは、最も高い所にいらっしゃる方(主)に対して、私たちが最も低い所に身をおくことです。
そして、まことの神以外の神をつくってはならないのです。
木で作ったものも、石で作ったものも、拝んではならないのです。
偶像を捨てきって、まことの神様だけを礼拝する者とならせて頂くのです。
 
朝、布団から出る前に、まず祈るのです。
一日の働きをはじめる前にも、まず祈ってから始めるのです。
職場に行く時も、まずお祈りするのです。
運転する前も、まずお祈りするのです。
祈りの中で、神様が素晴らしい道を用意して下さるのです。
様々な出来事があっても、恐れることはないのです。
様々な状況の中で、神様は、最善の道を用意して下さるのです。
 
この2009年。たくさんの夢が実現するとなります様に、
多くの実を結ぶことができますように。
そのためにも、いつも神様を礼拝し、神様とともに歩み、
神様の愛で、神様の力で、神様の知恵で、神様の恵みの中で歩む者とならせて頂きましょう。