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28/01/2008 聖霊の内住 ローマ 8:12-13もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。
しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
皆さんは、心の中で葛藤をおぼえ、自分の肉で苦しんでいることはないでしょうか。 私たちの内には、肉の強さがあり、自我や甘え、わがままの強さが出てくることがあります。
この「肉」と、「御霊(聖霊)」との間で、葛藤が起こるのです。
もし、いつも肉に振り回される状態であるのなら、そこから戦い始め、勝利させて頂くのです。
聖霊の働きは、肉の行いを殺すとあります。そこに、勝利があるのです。
甘えで苦しんでいても、わがままで苦しんでいても、聖霊が私たちの内に来て下さる時、
この甘えやわがままの行いを殺すのです。
勝利したいと願うなら、聖霊に従い始めていくのです。
「あなたがたは生きるのです。」と御言葉であるように、私たちが聖霊によって歩む時、
私たちの生活が、働きが生きるようになるのです。
神様は約束として、このことをお与えになっています。
イエス様を信じる者が味わう最高の恵み、それは、聖霊が内住して下さり、それに従っていく恵みです。
これは、この世の様々な物質的なもの、様々な地位や名誉などよりも、はるかにまさる、最高の祝福なのです。
聖霊の内住が無い、肉に浸かった生活は、惨めな生活です。
大きな特徴として、いつも全てにおいて怖がるというものがあります。
いつも不安で、おどおど、びくびくして、最悪の事を考えるのです。
いつも、他人に何か言われるのではないか、攻撃や圧力をかけてくるのではないかと考えるのです。
ダビデは勇士でした。
そのダビデが恐れていたものがありました。
それは、聖霊が取り去られてしまうことでした(詩篇51:11)。
聖霊が取り去られると、救いの喜びがなくなり、疲れた生活を送らなければなりません。
いつも、人前で自分をつくろわなければならないので、家に帰ると倒れてしまうのです。
喜びのないまま、仕方がなく仕えていく生活になってしまうのです。
聖霊に従う生活と、聖霊のない生活、これは天と地ほどの違いがあります。
聖霊がともにおられる時、喜びがあふれます。
喜びをもって主に仕えよう、人々に仕えようと、全ての働きが生きはじめるのです。
そして、神の子供になって歩むことができるのです。
神様を「お父さん。」として、歩んでいくことができるのです。
その温かさの中で、豊かさの中で歩んでいくことができるのです。
肉の行いを殺し、私たちを健全なものにして下さる恵みがあるのです。
今日、聖霊に従って生活していますか。
それとも、肉に従って生活していますか。
聖霊が内住して下さる時、生きるようになるのです。
ダビデと同じように、いつも主とともにいて、この恵みの中に進むものとならせて頂きましょう。
(HCCカンファレンス礼拝での、榊山清志先生のメッセージより) 21/01/2008 YESかNOか 箴言 4:20-27偽りを言う口をあなたから取り除き、曲がったことを言うくちびるをあなたから切り離せ。
あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。
あなたの足の道筋に心を配り、あなたのすべての道を堅く定めよ。
右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。 人生は選択です。何を見るか、何を聞くか、どのような言葉を出すかで、人生は変わってしまいます。
私たちは、何を肯定するか、何を否定するかを、よく吟味させて頂く必要があるのです。
1)罪に対して否定し、イエス・キリストに従っていく。
アダムとエバがたった一度、木の実を食べてしまったことで、全人類に罪が入ってしまいました。 「少しくらいなら…」という心はないでしょうか。私たちは、罪から贖(あがな)われた者です。
罪から離れ、イエス様に従っていくのです。
2)自己満足を否定し、イエス様にある満足を得ていく。
自分のために貯えても、神の前に富まない者は、愚か者であると聖書は教えています。 自分の欲を満たす自己満足な生活ではなく、
聖書の恵みに満ちた生活、イエス様にある満足を得る者とならせて頂くのです。
3)自分の力を否定し、神様の力を肯定する。
自分の能力や財力、生まれ育ちなどにとらわれるのではなく、神様に期待していくのです。 私達の持てるものには限界がありますが、神様には限界がないのです。
神様の力にまさるものは何もないので、恐れずに前進していくのです。
4)悪い習慣を否定し、良い習慣を身につける。
酒、タバコ、マージャン・パチンコなどのギャンブル…。これらのものは、自分の身を滅ぼす元となるのです。 そのような悪習慣から離れ、神様を第一とする習慣、
例えば、朝早く起きて、聖書を読む習慣などを身につけていくのです。
5)情欲に満ちた生活を否定し、聖霊充満を肯定する。
聖書に出てくるサマリヤの女性は、男性に飢え渇いていました。 イエス様は彼女に、「わたしが与える水を飲む者は、決して渇くことがない。」と言われました。
この世のもので心を満たすのではなく、聖霊に満たせて頂くのです。
6)疑いを否定し、信仰を肯定する。
「おできになるものなら、お助けください。」と言ったことに対し、イエス様は、 「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と答えました。
不信仰な歩みではなく、「できる」と信じて歩んでいくのです。
7)絶望を否定し、希望を肯定する。
神様が、「光よ。あれ。」と仰せられ、この世ができました。 神様は光を与えて下さるお方です。私たちは、いつも主に目を向ける中で、夢を持って前進させて頂くのです。 15/01/2008 主にある夢をもつ コリントⅠ 2:9目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。
神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。
ある人が、魚を釣りに行きました。
その人は、体長20センチ位までの魚は、釣ったら自分のものにするのですが、
それ以上の大きさの魚は、釣っても逃がしてしまうのです。
そばで見ていた人が不思議に思い、
「なぜあなたは、20センチくらいまでの魚は自分のものにするのに、それよりも大きな魚は逃がしてしまうのですか。」
と尋ねました。
するとその人は、「実は、私の家のフライパンの大きさが20センチしかないのです。
20センチ以上の魚はフライパンに入らないので、逃がすしかないのです。」と言ったのです。
私たちの信仰の器も、小さければ、小さいビジョンしか持つことができません。
信仰の器を大きくすれば、大きな夢・ビジョンを持つことができます。
夢を実現することは、簡単なことではないでしょう。
様々な困難や、現実の中を通ります。
ちょっと頑張れば手の届くような夢は、かえって実現しないものです。
それは、神様に拠り頼まずに、自分の力でやってしまうからです。
もっともっと大きな夢を、私たちは抱いて、神様に拠り頼む中で前進させて頂く必要があるのです。
そのために大切なことを、四つ、挙げていきます。
1) 夢を描くこと。イメージすること。
2) 夢は必ず実現することを信じること。 3) いつでもその言葉を、告白すること。(できる!と信仰告白する。) 4) その夢に対する目標をはっきりと立て、協力者を作っていくこと。 マルコの福音書10章46-52節では、イエス様は、盲人バルテマイに対し、「何をしてほしいのか。」と尋ねました。
彼は、「目が見えるようになることです。」と答えました。
彼が心の底から願っていることは、誰の目から見ても明らかでした。
それは、目が見えるようになることでした。
イエス様はもちろん、バルテマイの願いを知っていましたが、あえて、彼の口からその願いを聞いたのです。
祈っている課題が、誰の目から見ても明らかな状況だとしても、
神様は、その人自身の口から、その願いを言うことを求めているのです。
私たちも、いつも夢を告白していくのです。
今年、目が見たことがない、耳が聞いたことがない、そして心に思い浮かんだことがない
素晴らしい神様の御業を見させて頂きましょう。
しかし、神様に目を向けない中で、そのような御業はなされません。
いつも悔い改め、罪からきよめられ、神様とともに歩む中で、
神様の素晴らしい御業を、たくさん見させて頂きましょう。 08/01/2008 神の律法を喜ぶ ローマ7:22-23私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には
異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、 からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見出すのです。 神の律法を喜ぶ…、これは、神様の御言葉を喜ぶということです。
何かおいしいものを食べたとか、何か面白い所で遊んだというような「この世の喜び」とは違い、
「聖霊の喜び」であり、「神様が与えて下さる喜び」なのです。
イエス・キリストが、私たちの勝利であり、救い主なのです。
どんな問題の中でも、困難の中でも、勝利を下さるお方なのです。
しかし、大切なのは、私たちの心です。
パウロは、「神に喜ばれたい」という気持ちがあるのにも関わらず、心の色々な葛藤をおぼえていました。
それは、この御言葉でもあるように、からだの中に異なった律法、すなわち「肉」というものがあったからです。
聖書は私たちに、「互いに愛しなさい。」「赦しなさい。」と教えています。
そのことをよく知っているのにも関わらず、「あの人だけは愛することができない。赦すことができない。」と
心のどこかで思っているのなら、これは心の葛藤があるのです。
しかし、イエス・キリストを心の真ん中に迎えるのなら、このような心の問題も必ず勝利し、
神の律法を喜ぶ道を選ぶことができるのです。
クリスチャンは、自分が罪深い者であることを忘れてはならないのです。
いつも、イエス・キリストを必要とし、「あなたの助けを下さい。」「あなたの恵みを下さい。」と祈り続けるのです。
その中で勝利が与えられ、人を愛する愛も、赦す心も与えられるのです。
ローマ7:6には、次のように書かれています。
「しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、
その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」
サタンは時として、御言葉を用いて私たちを惑わします。
この惑わしに勝利するためには、やはり、御言葉が必要なのです。
神様の御心が分からなければ、サタンに勝利することはできないのです。
私たちは、聖書の文字に仕えるのではなく、新しい御霊、すなわち聖霊に仕えていくのです。
私たちの力では、聖書の御言葉を守りきることはできないのです。
しかし、聖霊に仕えていくのなら、神の律法を喜ぶ歩みをすることができるのです。
私たちの内側には、様々な葛藤があります。
しかし、「イエス様!」と叫んで歩む中で、勝利していくことができるのです。
豊かな食卓も旅行も、その他の楽しみも、神様から離れてしまったら貪欲の罪に陥ってしまうのですが、
神様とともに歩むのなら、愛にあふれた、喜びにあふれた、素晴らしいひとときとなるのです。 07/01/2008 神の律法を喜ぶ ローマ7:22-23私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には
異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、 からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見出すのです。 この箇所の著者のパウロは、パリサイ人の中のパリサイ人、非の打ち所のない、素晴らしい人物でした。
しかし、パウロは、日々心の葛藤をもって生きていました。
彼は、二つの律法の中で、葛藤をおぼえていました。
一つは「神の律法」、すなわちいのちの御霊の力によって歩む生活、主の道を歩む生活です。
そしてもう一つは、ここで書かれている「異なった律法」、すなわち主の道を歩まないで、自分の道を歩む生活です。
イエス・キリストを信じた私たちにも、いつも異なった二つの力が働いているのです。
そして、私たちの内側に、いつも戦いがなされているのです。
神様に従わないで自分の道を歩むほうが、楽であるかのような惑わしがあるのです。
しかし、その、楽に見える道には、何の恵みもないのです。
もし、パウロが味わったような葛藤が何もないのならば、それは喜ばしいことではありません。
それは霊的に死んでしまって、流されているということなのです。
霊的に「生きている」からこそ、葛藤があるのです。
私たちの内に、いのちが植えられているので、葛藤をおぼえるのです。
「肉」が出てくると、心に平安がなくなります。喜びがなくなります。
ヨナも、主から示された地へ行かず、自分の思いに従って、自分の行きたい所に行きましたが、
その中では平安がありませんでした。
主は、私たちをいつも正しい道に導こうとしておられます。
葛藤がある中で、主に従って歩み始める時、霊的革命が起こるのです。
家庭が、職場が、それぞれの遣わされている所が、革命的な恵みであふれるのです。
生活がひっくり返るような、革命です。その中には、喜び、力、恵みであふれ、
生活が改善され、愛が注がれ、恵みが注がれるのです。
2008年、大いなる祝福を頂くために、主の道に従っていく者とならせて頂きましょう。
私たちはその中でこそ、新しい歩みをすることができるのです。
葛藤をおぼえた時、いつも主の道のほうを選択し、神の律法を喜ぶ者とならせて頂きましょう。
そして、この年、革命的な恵みで満たされる、そのような歩みをさせて頂きましょう。
(元旦礼拝での榊山清志先生のメッセージより) |
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