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HCCライブチャーチ磐田

日曜礼拝のメッセージです。
8/5/2008

神様を見いだす人         箴言 8:32-36

 
 
なぜなら、わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、
主から恵みをいただくからだ。
わたしを見失う者は自分自身をそこない、
わたしを憎む者はみな、死を愛する。
 
 
一人のおばあさんが、大きな台風がやってきた時、家の中で一番大切なものを持っていこうと思い、
大きな風呂敷に仏壇を包んで担いでいきました。
台風が去って、おばあさんは一言言ったそうです。
「神様を助けることができてよかった。」と。
しかし同時に、何かがおかしいことにも気づいたのです。
「神様が私を助けるはずなのに、なぜ私が神様を助けるのか?」
おばあさんは、このような偶像が本当の神様ではないことに気がつきました。
彼女は教会に導かれ、洗礼を受けてクリスチャンとなったのです。
 
神様は、天も地も造られ、私たち一人ひとりを形づくって下さったお方です。
私たちはみな、神様の愛によって造られた、大切な存在であり、
神様の作品なのです。
神様は私たちに、正しい道を導いて下さり、希望を与えて下さるお方なのです。
この神様を見いだす人は、いのちを見いだすと聖書には書かれているのです。
ヨハネの福音書3章16節にあるように、イエス・キリストを信じる人は、
ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つことができるのです。
また、エペソ人への手紙1章11節にあるように、
イエス・キリストを信じる人は、天国を受け継ぐことができるのです。
ガラテヤ人への手紙3章29節には、「相続人」とも書かれています。
私たちは、すべてを持っている天のお父さんの相続人となることができるのです。
 
それに対し、神様を見失う者は、自分自身をそこなうとあります。
ルカの福音書12章13-21節にあるように、自分のために貯えても、
神様のいのちを頂かなかったら、むなしいだけなのです。
自分の力でいくら頑張ってみたところで、永遠のいのちを頂くことはできないのです。
私たちのこの地上での生活は、長くても100年くらいでしょう。
しかし、その期間に私たちは、永遠をどこで過ごすのかを決定しなければならないのです。
それは、神様を信じて天国に入る道を見いだすか、
神様を見失って地獄に行く道を通るかのどちらかです。
 
イエス・キリストは、私たちの罪、のろい、病、全てのために十字架に架かられました。
そして、私たちに永遠のいのちが与えられたのです。
私たち一人ひとりが神様を見いだし、神様の豊かな祝福を頂く者とならせて頂きましょう。
7/30/2008

十字架の贖い(あがない)      ルカ 23:33-43

 
 
イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。
あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
 
 
イエス・キリストは、私たちを罪から救うために、この地上に来られました。
目的はたった一つ、救いの道を開くことだけだったのです。
そのために、人類のすべての罪を負って、十字架に架かって下さったのです。
 
このイエス・キリストを信じ、受け入れる人は救われます。
しかし、自分が罪人であることを認めない、自分が正しいと思っている人は、救うことができないのです。
神の御子であるイエス・キリストが十字架に架けられ、犯罪者扱いされる中で、イエス様は言われました。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
十字架につけた彼らは、自分のしていることがわからない、つまり自分の罪がわからなかったのです。
そのような彼らに対してもイエス様は、「彼らをお赦しください。」と愛の姿勢を示されました。
イエス様は、人々の罪をなすりつけることをせず、一つ残らず全部を受けて、十字架に架かられました。
そのことを信じるならば、誰であっても罪なき者とされるのです。
言ってみれば、今までの「罪」という「借金」が、全部支払われたのです。
これが、イエス様の十字架の贖い(あがない)であり、救いなのです。
 
イエス・キリストは、33年間の歩みの中で、多くの人々を助け、救い、癒してきました。
その間、自分を助けたり、自分を救ったりすることは一度もありませんでした。
いつもイエス様は、心砕かれた人をお救いになりました。
言いがかりをつけるような人を救うことは、ありませんでした。
 
 
イエス様は、二人の犯罪人とともに十字架につけられました。
その時一人の犯罪人は、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言いがかりをつけました。
しかし、もう一人の犯罪人は、「お前は神をも恐れないのか。」と、たしなめて言いました。
そして、自分自身を砕いて、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、
私を思い出してください。」と言われました。
イエス様は、その心を砕いた犯罪人に対して、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
と語られたのです。
イエス様を信じる者が、パラダイスに行くことができるのです。
 
私たちは、ただ恵みによって、信仰によって救われるのです。
自分を正しい者とするのではなく、また言いがかりをつける者にならないで、
いつでも心砕き、幼子のような心で神様を受け入れる者とならせて頂きましょう。
7/23/2008

十字架の救い       ローマ 1:16-17

 
 
私は福音を恥とは思いません。
福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって救いを得させる神の力です。
なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。
「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。
 
 
福音とは何でしょうか。
神様から離れてしまった私たちをもう一度神の子供として取り戻して下さるために、
イエス様が私たちと同じ立場になってこの地上に来て下さり、私たちの罪を全部引き受け、
十字架上で私たちの代わりに死んで下さり、そして死の力を打ち砕いて復活して下さった
…これが福音です。
 
どんな人であろうと、福音を信じる時に救われるのです。
この『救い』という言葉は、非常に強い言葉です。
私たちは、色々な人々から慰められたり励まされたりします。それはとても大切なことです。
しかし人生には、慰めや励ましや助言では間に合わないということが、沢山あります。
ニュースを見ていたら、川に流されて、中州のような所で3人ぐらい取り残されている状況の中、
ヘリコプターで助けられたという状況がありました。
これが救いです。
もし川岸で、言葉で励ましたとしても、そこには何の力もないでしょう。
でも、実際に誰かが飛び込んだり、ヘリコプターを動かしたりすることによって、救われたのです。
イエス様の救いは、それ以上のものです。
それは、永遠のいのちに関わることです。
人類の最初の人が罪を犯したことにより、神様との間に断絶を生じてしまいました。
罪の性質が、生まれつき血の中に入ってしまっているのです。
しかし神様は、すぐに、その罪から救い出して下さる計画を与えて下さったのです。
 
イエス様は、あなたのために十字架に架かって下さいました。
あなたの孤独、空しさ、罪、死に対する恐怖、その一切のためにイエス様は救い出して下さいました。
神様の溢れるばかりの恵みを受けて生きることができるのです。
何が起きようと「恵み」なのです。
その時は分からなくても、最善が成されるのです。
神様は私たちに、絶対に最善以下のことはなさいません。
試練の時は辛いかもしれません。
しかし、それによって訓練され、鍛えられた者には、平安な義を結ぶことができると御言葉は約束しています。
 
 
聖書は、神様から私たちに贈られたラブレターです。
そして福音は、プロポーズです。
大好きな人にプロポーズされても、それに「はい」と答えなければ、何にもならないのです。
「あなたを愛している。」ただこの愛を受け取って下さい。これが福音なのです。
(HCCカンファレンスでの千田次郎先生のメッセージより)
7/11/2008

水がぶどう酒に変わる     ヨハネ 2:1-11

 
 
イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」
彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」
彼らは持って行った。宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。
 
 
ここでは、結婚式が行われていました。イエス様の母マリヤも、そこにいました。
彼女は、宴会で出すぶどう酒がなくなってしまっていることに気づき、イエスに向かって言いました。
「ぶどう酒がありません。」 
しかしイエス様は、こう言われました。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。」
つまり、わたしの関心と、ぶどう酒が足りないということとは何の関係もないと言われたのです。
 
宴会の席でぶどう酒が足りないということは、本当は大変なことです。
私たちも普段の生活の中で、「こんな大事な時に、どうしてこんなことになってしまったのだろう。」
ということはないでしょうか。
その時私たちは、どのように反応するでしょうか。
私たちは何か問題があると、自分で何とか頑張ろうとしやすい者です。
マリヤも、ぶどう酒が足りないという状況の中、何とかしなければと思っていたことでしょう。
しかしイエス様の関心は、どんな状況の中でも、心配しないで神様にゆだねること、
そして神様にまかせることだったのです。
私たちは、神様に求めるという反面、ゆだねること、明け渡すことも大事なのです。
 
マリヤはその後、手伝いの人に言いました。
「あの方(イエス)が言われることを、何でもしてあげてください。」 
そして彼らは、イエス様の言われるとおりに水がめに水を満たしました。
彼らは、イエス様の行うことを何でもしたので、この水がぶどう酒に変わるという
奇跡を見ることができました。
私たちも、イエス様の言われることを、何でも行うことが大切なのです。
神様の栄光があがめられるように、神様の御心がなるようにと祈り求めていくのです。
 
私たちは、どんなに自分で頑張っても、本当の喜びというものは得られません。
そうではなく、聖霊の力によって喜びあふれる者とならせて頂くのです。
「何かが足りない。」ではなく、イエス様によって、すべて与えていただくのです。
 
聖書には、他にもたくさんの奇跡が出てきます。
クリスチャン生活は、奇跡の連続なのです。
毎日毎日、私たちはイエス様とともに、奇跡を見させて頂くのです。
あとからあとから、良いもので満たされる…これがクリスチャン生活です。
心配することはないのです。
すべてを神様にまかせる中で、たくさんの恵みを、そして奇跡を見させて頂きましょう。
6/30/2008

真剣な求め        ローマ 9:3

 
 
もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私が
キリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。
 
 
パウロは、同国人の救いに対する祈りは、痛みのある祈りでした。
その痛みをもって、熱い心をもって、主の前に出ていました。
「何とかして、この人たちに救いを下さい。」と祈ったのです。
「私がのろわれてもいいので・・・。私はどうなってもいいので、同胞を救って下さい。」
・・・このような祈りの姿勢、あなたにあるでしょうか。
それとも、自分のためだけに祈っていたでしょうか。
 
 
日本の多くの人は、まだイエス・キリストの救いに預かっていません。
皆さんの家族・親族・友達、それらの人々のために、本当に熱い心を持って祈っていますか。

モーセが、シナイ山にのぼって神様と交わっている時、民は偶像を造ってたわむれていました。
モーセは、そのような状況を見た時、主に心を注いで祈りました。
「主よ。彼らの愚かしさを赦して下さい。彼らをあわれんで下さい。
もし、彼らの罪が赦されないのなら、どうかあなたの書物から私の名を消し去っても結構ですから、
彼らをあわれんで下さい。」

私たちも、同国人のために、痛みをもって、切実に、「何とかして!」という思いをもって
歩ませて頂くのです。

私たちの周りの多くの人が、本当は福音の必要を求めながら生活しています。
しかし、福音に接する機会がない、それを伝えてくれる人がいない。そのような状況を見るのです。

「この人には、福音は必要ではないのではないか?」と思われるような人、
例えば、人生の成功者、豊かになっている人、自信を持って生活している人などがいることでしょう。
しかし、その人たちこそ、本当は救いを待っているのです。
素晴らしいものがあるのと反比例して、心の中は空洞であるのです。
お金があっても、事業に成功しても、素晴らしい家に住んでいても、
心の中は、どうしようもないほど飢え渇きをおぼえているのです。

ニコデモは、誰から見ても素晴らしい人物でした。
しかし彼は、夜こっそりとイエス様の所に行き、
「先生、永遠をいのちを得るにはどうすればよいのですか」と質問されました。
彼の心の中にも、飢え渇きがあったのです。
優れた人に見えても、豊かな人に見えても、福音が必要なのです。
彼らこそ、救いを、解決を、勝利を頂きたいと待っているのです。

福音だけが、素晴らしい救いであり、大きないのちを与えるものです。
人は、外側をつくろうものです。
どうか私たちの目が、人々の内側を見ることのできる目とならせて頂きましょう。

(HCCカンファレンス礼拝での、榊山清志先生のメッセージより)

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Updated 4/7/2007